序
輸液療法の歴史は古く,1831年エジンバラ大学のO,Shaugnessyがコレラ患者の血液の状態は脱水による血液の停滞が原因であることを明らかにして,彼のアシスタントでスコットランドのLattaが食塩水(Na 58mEq/l)を注入し,25人中の約3分の1の患者が輸液治療で救命されました.その後,1876年に英国のSydney Ringerがカエルの心臓の研究で,生理的にもっとも適している電解質溶液としてリンゲル液(蒸留水1lにNaCl 8g,KCl 0.3g,CaCl 0.33g)を紹介しました.その35年後に米国の小児科医のAlexis Hartmanがリンゲル液にアルカリ化薬として乳酸を加えた乳酸加リンゲル液を発表し今日の輸液治療の礎を築いています.しかし20世紀前半まではこれらの輸液製剤の重要性は認識されていましたが,血管アクセスの合併症や敗血症の合併などのため,ごく重症例への適応に限られていて輸液治療の進歩は遅かったようです.その後,無菌環境の進歩と第2次世界大戦を経て輸液療法は急速に進歩して,多くの命を救い,多くの患者の病態改善に寄与するようになりました.現在では入院患者の85%以上の患者に何らかの輸液治療が行われているとされています.
しかし,わが国での卒前教育におけるこの分野での教育は十分になされていないのが現状のようです.したがって卒後研修に入ったばかりの医師は,受け持ち患者の点滴オーダーや,電解質・酸塩基平衡異常に,どう対処すればよいのか悩む事が多いようです.
ちなみに米国における卒前,卒後教育のコアカリキュラムにおいて水・電解質・酸塩基平衡異常についての学習到達目標として,
1.病態生理,徴候と症状,循環血液量の評価,血清電解質濃度異常(ナトリウム,カリウム,カルシウム,マグネシウム),単純な酸塩基平衡異常について述べる事ができる.
2.偽性低ナトリウム血症と真の低ナトリウム血症の区別,偽性高カリウム血症とアシドーシスに関連する高カリウム血症の区別ができる.
3.低ナトリウム血症の急速な補正と遅延した補正,それぞれのリスクを述べる事ができる.
4.アニオンギャップの計算のしかたと,代謝性アシドーシスの原因特定との関連を述べる事ができる.
5.体液量の計算のしかたと,その分布について述べる事ができる.
6.補液の種類と水・電解質異常の患者への投与方法を述べる事ができる.
が挙げられており,これらの事項が医師の初期教育での必須の到達目標とされています.
わが国ではこれらの勉学の不足を補うために,卒後の研修医向けに輸液療法に関する総説的な本や,輸液に関する雑誌の特集号が出されていますが,実践的な症例集は少ないようです.この本では輸液療法,電解質・酸塩基平衡異常への対処法をマスターするために,輸液療法を必要とする各種の症例においてどのような検査計画,輸液計画を立てればよいか,ケーススタディ法を用いて具体的な課題について臨床経験豊かな先生方に分かりやすく解説していただきました.色々な分野の症例が提示されていますので,自分が受け持っている症例と同様なケースから読み進んでいただければ,輸液療法,酸塩基平衡異常に抵抗なくなじんで行けると思います.より良い医療をめざして,一日も早く世界標準に近づくように頑張ってください.
2006年6月
遠藤正之
目次
I.輸液の基本理念と基本原則 <遠藤正之> 1
1.体液の分布と組成
2.浸透圧と張度
3.生理食塩水と5%ブドウ糖液
4.維持輸液と補充輸液
5.輸液製剤の分類
II.病態,状況に応じた輸液
1.血圧低下をきたしている若者
―出血性ショックの患者の診断と治療 <中川儀英> 10
2.血圧低下をきたしている高齢者
―敗血症性ショックの患者の診断と治療 <柳 秀高> 15
3.ぐったりしている高齢者
―脱水による腎前性急性腎不全の診断と治療 <仁科 良> 21
4.昏迷状態の高齢者(1)
―高ナトリウム血症の診断と治療 <今井裕一・渡辺一司> 26
5.昏迷状態の高齢者(2)
―低ナトリウム血症の診断と治療 <今井裕一・鈴木啓介> 30
6.口角のしびれる糖尿病患者
―高カリウム血症の診断と治療 <守屋利佳・鎌田貢壽> 34
7.全身脱力,筋肉痛の女性
―低カリウム血症の診断と治療 <竹内康雄・鎌田貢壽> 40
8.急性腎不全を呈した胆嚢癌の患者
―高カルシウム血症の診断と治療 <秋山由里香・斉間恵樹> 46
9.痙攣,意識障害の男性
―低カルシウム血症の診断と治療 <斉間恵樹・秋山由里香> 54
10.食欲低下,全身倦怠感の女性
―高リン血症の診断と治療 <三留 淳・笠井健司> 59
11.制酸薬連用後の意識障害
―低リン血症の診断と治療 <三留 淳・笠井健司> 66
12.傾眠状態の腎不全患者
―高マグネシウム血症の診断と治療 <新井英之・宮崎正信・河野 茂> 72
13.不穏状態の肝硬変患者
―低マグネシウム血症の診断と治療 <新井英之・宮崎正信・河野 茂> 76
14.糖尿病性腎症患者の意識障害
―乳酸アシドーシスの診断と治療 <遠藤正之> 80
15.16歳糖尿病患者の全身倦怠感
―糖尿病性ケトアシドーシスの症例 <豊田雅夫・鈴木大輔> 86
16.意識障害で発見された糖尿病患者
―低血糖が遷延した症例 <豊田雅夫・鈴木大輔> 90
17.意識障害の肝硬変症患者
―肝性昏睡の症例 <加川建弘> 94
18.心窩部痛とともにショック状態の男性
―急性膵炎患者の輸液管理 <小林健二> 98
19.嘔吐,下痢で苦しむバリ島帰りの男性
―激しい下痢の症例 <小林健二> 102
20.手術患者は今どうなっている?
―麻酔中の輸液管理 <福山東雄・鈴木利保> 107
21.手術後の輸液はどうする?
―術後高カロリー輸液 <飛田浩輔・堂脇昌一・今泉俊秀> 113
22.赤褐色尿を呈した抗痙攣薬服用中の男性
―横紋筋融解の症例 <須藤 博> 120
23.禁食が必要な腎不全患者
―腎不全患者の高カロリー輸液 <松村正巳> 125
24.造影剤使用時の輸液EBM
―腎機能障害のある患者に対する造影剤使用時の輸液管理 <井口清太郎・下条文武・西慎一> 131
25.脳浮腫の予防はどうする?
―脳血管障害患者の輸液管理 <瀧澤俊也> 136
26.嘔吐・下痢の続く1歳2カ月の女児
―小児の嘔吐・下痢の治療 <新村文男> 140
27.軽くみてはいけない「つわり」
―妊娠嘔吐の治療 <池田仁惠・和泉俊一郎> 145
28.25歳男性,高度熱傷
―熱傷患者の輸液管理 <秋枝一基> 151
29.真夏に倒れた2人の男性
―熱中症の診断と治療 <渥美宗久・藤田芳郎> 155
30.pH7.645の急性腎不全患者
―代謝性アルカローシスの診断と治療 <柳 秀高> 161
31.メイロンはいつどんなときに使うのか?
―炭酸水素ナトリウムの適正使用法 <土田浩生・佐藤武夫> 166
索引 171