まえがき
フランスの作家で哲学者のアンドレ マルローは「21世紀は再び心の時代となるであろう．さもなくば21世紀は存在しないであろう」といったそうだが，21世紀の今日私達の目の前に広がる風景はそれとはおよそほど遠い世界である．
おだやかな陽光につつまれ，子ども達が笑い興じる平和な世界を夢みたはずなのにそれとはうらはらの光景が眼前に広がっている．絶えることのない争い，テロや戦争，内戦といった状況はいつ果てるともなく続いている．私達の国でも人の心がすさんだような予想もつかないさまざまな事件・事故に巻きこまれる人々がいる．日々の営みの中でまどろむいとまもないほど人の心は波立ち，安らぎの眠りにつける夜も多くはない．心を乱す悲しみや喪失，葛藤やストレスの絶える日はついに訪れず心を病む人々もいる．この頃では弱い立場の幼い子ども達が犠牲になる事件も多い．かけがえのない家族や最愛の人を失った者の悲しみはどのようにして癒したらよいのだろう．
一陣の風と共にやってきた一篇の詩“千の風になって”（a thousand winds. 原詩/作者不明．日本語詩：新井 満．講談社；2003）に出会い，限りなく癒される人もあろう．しかし，それ以外の多くの人々はどのようにして喪失の悲しみから立ち上がり，傷ついた心の手当てをしたらよいのだろうか．
臨床心理学は，このように心に傷を受け疲れ果て癒されることのない苦悩と痛みに寄り添い，支援を行う学問分野である．実践に携わる者は，確かな知識と技術に裏打ちされた高い専門性と，ゆるがぬ心の強さをもたねばならない．だが，心理臨床にかかわる者は同時に人としての恥じらいやナイーヴさを失ってはならない．村瀬嘉代子氏の自他へのまなざし（「柔らかなこころ，静かな想い」創元社；2002）は，そのようなことを思い出させてくれる．
医学は進歩し大抵の病は治癒することが可能な時代になった．EBM（Evidence Based Medicine）も重要である．しかし，ユング派分析家の河合隼雄氏は医療におけるNBM（Narrative Based Medicine），すなわち病む者の個別の“物語”に耳を傾けることの大切さを説いている．ハーバード大学のアーサー クライマンも「病いの語り」〔江口重幸，他訳．誠信書房；1996（The Illness Narratives. New York: Basic Books Inc; 1988）〕の必要性について述べる．エリック キャセルも「癒し人のわざ」〔土居健郎，他訳．新曜社；1991（The Healer,s Art. New York: JB Lippincott Co; 1976）〕で言及し，訳者の土居健郎氏も強調されたように，人は単に病を治療されるだけでは人として全人的に癒されることにはならない．臨床心理学はこのように医療や保健，福祉，教育などの谷間に生じた心くばりのすき間を埋めることに役立つ専門分野であってほしいと願う．
このテキストは主として保健・医療・福祉に携わるコメディカルの学生を対象に，臨床心理学の基礎を学ばせることをねらいとして編まれたものである．したがって必要最小限のところを簡略に述べたところが多い．しかし，章によっては臨床心理学をプロパーとして学ぶ心理学系の学部学生，さらには臨床心理士を養成する指定大学院に在籍する大学院生にも十分読みごたえのある内容になっているのではないかと考えている．
本書がこれら勉学途上の若い学生たちの入門書としてだけでなく，時にはそれぞれの現場ですでに実践に携わっている方々にとっても，おりにふれ必要な箇所を拾いだして読み直すことに耐えるテキストとして活用されることを願っている．
2006年3月
名嘉 幸一
目 次
1■ 臨床心理学序説 ＜名嘉幸一＞ 1
1．臨床心理学の歴史−概説 1
a ヨーロッパにおける動向 1
b アメリカにおける動向 3
c 日本における最近の動き 4
d 関連する分野の動き 5
2．臨床心理学の実践的展開 6
心理臨床の実践方法とその対象 6
1）心理アセスメント 6
2）カウンセリングと心理療法 8
3）コミュニティへのかかわり 8
2■ 臨床心理学的査定・診断（心理アセスメント） ＜渡久山朝裕＞ 12
1．知能検査 12
a 知能の定義 12
b 知能の構造 12
c 知能検査の種類 13
1）ビネー式知能検査 13
2）ウェクスラー式知能検査 13
3）知能指数 14
4）偏差知能指数 14
2．発達検査 14
3．性格検査 14
a 質問紙法 15
1）YGPI?（矢田部・ギルフォード性格検査） 16
2）MMPI（ミネソタ多面人格目録） 17
3）エゴグラム 18
4）EPPS 19
b 作業検査法 19
内田クレペリン精神検査 19
c 投影法 20
1）ロールシャッハテスト 21
2）TAT（主題統覚検査） 22
3）SCT（文章完成法テスト） 23
4）バウムテスト（樹木テスト） 24
5）HTPテスト（家屋・樹木・人物描画テスト） 24
6）P-Fスタディ（絵画欲求不満テスト） 25
d 性格検査の活用 26
4．その他の心理検査 27
a STAI（状態・特性不安検査） 27
b SDS（うつ性自己評価尺度） 27
5．テスト バッテリー 27
6．面接法 27
7．臨床心理士の専門性 28
3■ 臨床心理学的援助 30
A．心理療法の歴史と成り立ち ＜菊池義人＞ 30
1．心理療法とはどのようなものか 30
2．心理療法の成り立ち 31
a 呪術，シャーマニズム 31
b 催眠術 36
c 自由連想法と精神分析 38
d 催眠と自律訓練法 42
e オペラント条件づけと行動療法 42
f クライエント中心療法と人間性心理学 44
g その他の先駆者 48
3．援助行為としての心理療法の特徴 49
a 人の主体性を引き出す 49
b 日常的なコミュニケーションを手段とする 50
c 対等で相互的な援助を行う 51
d 心理療法は専門家の援助と非専門性の援助を結びつける 51
B．心理療法の諸技法 ＜工藤晋平＞ 54
1．クライエント中心療法 54
a 無条件の肯定的配慮 54
b 共感的理解 54
c 純粋性 55
2．エンカウンターグループ 56
3．フォーカシング 57
a クリアリングスペース 58
b 選ぶ 58
c フェルトセンス 58
d 見出しをつける 58
e 見出しへの共鳴 58
f 問いかけ 58
g 受容 58
4．精神分析療法 59
5．プレイセラピー 61
6．箱庭療法 64
7．芸術療法 67
8．集団精神療法 68
9．心理劇 69
10．催眠療法 71
11．自律訓練法 72
12．動作法 74
13．内観療法 75
14．森田療法 77
a 第1期：絶対臥褥期 78
b 第2期：軽作業期 78
c 第3期：重作業期 78
d 第4期：生活訓練期 79
e 日記指導 79
15．行動療法 80
16．認知行動療法 81
17．バイオフィードバック法 83
18．家族療法 84
19．ブリーフセラピー 86
C．臨床場面への応用と展開 ＜菊池清美＞ 89
1．心理療法の適応 89
2．心理療法の始めかた 91
a 主訴と技法の選択 91
b 心理療法への導入 93
3．心理療法の経過と技法 94
a 事例 95
b 考察 101
4．トレーニング─メニンガークリニックの教育・訓練システム 104
a 知識 105
b 臨床技術 105
c 自己理解 106
d メニンガークリニックにおけるトレーニングシステム 107
D．コンサルテーション・リエゾン活動 ＜名嘉幸一＞ 111
1．医療機関におけるコンサルテーション・リエゾン活動 111
2．地域におけるコンサルテーション・リエゾン活動 112
E．スーパーヴィジョンとコンサルテーション ＜名嘉幸一＞ 114
4■ ライフサイクルと心理臨床 ＜井村弘子＞ 116
1．生涯発達とライフサイクル 116
2．各発達段階の特徴と心理臨床 116
a 乳幼児期 116
b 児童期 119
c 青年期 121
d 成人期 123
e 老年期 124
5■ 心理臨床活動の領域 ＜井村弘子＞ 126
1．教育の領域 126
a 教育の領域における心理臨床活動 126
b 教育の現場と心理臨床 126
2．医療・保健の領域 127
a 医療・保健の領域における心理臨床活動 127
b 医療・保険の現場と心理臨床 127
3．福祉の領域 130
a 福祉の領域における心理臨床活動 130
b 福祉の現場と心理臨床 131
4．司法・矯正の領域 133
a 司法・矯正の領域における心理臨床活動 133
b 司法・矯正の現場と心理臨床 133
5．産業領域 135
a 産業領域における心理臨床活動 135
b 産業の現場と心理臨床 135
6■ 心理臨床における倫理 ＜名嘉幸一＞ 137
臨床と実践活動における倫理の重要性 137
（資料1）日本臨床心理士会倫理綱領 140
（資料2）日本心理臨床学会倫理綱領 145
（資料3）日本心理臨床学会員のための倫理基準 147
（資料4）臨床心理士倫理綱領 151
索引 153