心臓は極めて単純な臓器である.全身に必要な血液をただひたすら,リズミカルに送り出しているポンプである.健康な心臓では,洞結節に始まる刺激伝導系の電気的興奮が一瞬の間に心筋の隅々に伝わり,そして一斉に収縮を開始する.しかもそこで駆出された血液の一部が冠動脈を介してポンプである自身の心筋を栄養している.その統制のとれたダイナミズムは惚れ惚れするほどに美しい.
 その理知的な心臓に異常が生じると,途端に様々な問題が発生する.しかし心臓に魅せられた者にとっては,その異常さえも理由のある,説明可能な異常のように思えてならない.こうして理屈にあった(と思われる)治療が選択される.ところが,実のところわれわれの理解している理屈は広大深淵な自然科学原理のうちのごく一部に過ぎない.自然の摂理を軽視した思いこみの治療は,これまで何度となく期待はずれに終わってきた.
 この思いこみによる倒錯治療に歯止めをかけるのがエビデンスではないだろうか.しかしエビデンスというのもくせ者である.マウスに効いたからといってヒトに同様の効果を発揮するとは限らない.ヒトにしてもすべてが同じヒトではない.顔も違えば心臓も違う.欧米人で証明されたエビデンスがそのまま日本人に当てはまるとも限らない.一人一人の症例にとってはエビデンスでも,それだけで普遍的に応用可能な真理とはなり得ないのである.
 一方,患者の立場からみてもエビデンスは重要である.自分という個人に対する治療が国によって,病院によって,医師によって違うのではたまったものではない.いくらセカンドオピニオンが許されるからといって,ベストな治療は本来ならただ一つしか存在しないはずである.それが施されないとしたら,その原因は医者側の怠慢にあるとしか思えない.背景には医者の不勉強や,情報が十分に伝えられていない,あるいはそれがうまく利用されていないことなどが関係していそうである.
 昨今では様々な情報が紙面のみならずインターネット上にも氾濫している.エビデンスと称する情報も然りで,十分過ぎるくらいのエビデンスにわれわれは囲まれている.その情報の洪水の中で,今,最も求められているのは,いかにして信頼できる情報,有益な情報をピックアップするか,という能力ではないだろうか.真に有用なエビデンスを選択し,それを適切な症例に活用して初めて,その患者にとって相応しい治療が施されることになる.
 エビデンスは固定したものではなく,常に流動している.2001年版,2004年版に続いて2006年版として本書を出版する運びとなったのも,時々刻々と集積される新しいエビデンスの流れに乗り遅れないようにするためにほかならない.以前には話題に上らなかった問題や,臨床現場での決断に迷うようなトピックスを新たに取り入れただけでなく,内容がマンネリにならないように,偏った見方にならないように,今回もまた,執筆者を大幅に改めさせて頂いた.執筆者の並々ならぬ努力には心から感謝する.
 本書を手にとって下さった読者諸兄,頭の柔らかい青年医師から,若干硬くなってきた年輩医師に至るまでもが,循環器疾患治療についてのアップデートされた情報のエッセンスに触れて感動し,啓発され,そして背後に横たわる永遠の真理を追求していただきたい.リフレッシュし,レベルアップされた頭脳を元に,今度は現実の目の前の患者に向き合い,少しでも安全かつ有効な治療法を,冷静に選択していただければ幸いである.それこそがEvidence based, scientifically supported, patient oriented therapyの提供につながるものと信じる.本書を活用することによって,一人でも多くの患者が救われることを期待してやまない.
 
2005年8月
編 者


目次

◆ I.虚血性心疾患  1
 A.急性心筋梗塞
  1.急性心筋梗塞の診断−トロポニン,H-FABPなど新規生化学マーカーの意義と選択は?…<清野精彦>  2
  2.急性期のリスク層別化
    救急室−CCUでのハイリスク症例の予測因子−リスクスコアの有用性−…<伊藤智範>  8
  3.Primary PCI vs ICT…<中尾浩一>  16
  4.血栓吸引療法,Distal protection deviceの効用と注意点は?…<溝手 勇 平山篤志>  27
  5.急性期の薬物療法としての抗凝固療法,抗血小板療法をどのように行うのがよいか?
    (薬剤の選択,投与量,投与期間と予後に関する効果)…<田中啓治>  32
  6.大きな合併症のないAMIに対して,β遮断薬はルーチンに投与すべきか?
    その場合の目安は?…<筒井 洋 池田宇一>  39
  7.安静時の発作が冠動脈スパズムか不安定プラークの破綻か区別しにくいことが多いが,
    どのような症例ならばCa拮抗薬投与を考えるべきか?…<副島弘文 岸川秀樹 小川久雄>  43
  8.ACE阻害薬は心不全や心機能低下がなくとも投与すべきか?
    その場合開始時期はいつ頃からがよいか?…<高橋 望 駒場 明 勝木孝明>  49
  9.急性期の硝酸薬は予後を改善するか?
    その場合投与量と投与期間はどうか?…<渡邊秀樹>  54
  10.CCU滞在期間あるいは在院期間…<江波戸文賢>  60
     a.低リスク例では何日くらいで退院させて大丈夫か?…  61
     b.入院中のリハビリを兼ねた段階的運動負荷試験
      (自立座位負荷,歩行負荷など)に意味があるか?…  65
  11.急性期に冠動脈造影・PCIを施行した例では退院前にどのような検査を行うか?
    (非侵襲検査を中心に)…<野崎直樹 久保田功>  69

 B.不安定狭心症
  1.救急室-CCUにおいて,どのような臨床所見がある(ない)と高リスク(低リスク)と判断されるか?
    リスクスコアの有用性は? 生化学マーカーはどれが一番有用か?…<伊藤 彰>  75
  2.初期治療…<國本 聡 齋藤 穎>  81
     a.入院の適応:どのような所見があったら入院を指示するか?…  81
     b.急性期の薬物治療:薬剤の選択,投与量,投与期間は?…  86
     c.緊急冠動脈造影の適応とタイミング,冠動脈インターベンションの適応は?…  90

 C.安定狭心症
  1.冠動脈疾患診断のための検査…<佐光英人 三浦伸一郎 朔 啓二郎>  95
     a.負荷心電図でどこまで診断できるか?…  95
     b.どのようなときに負荷イメージ(RI,エコー)を行うべきか?…  99
  2.リスク層別化のための検査
     a.負荷心筋シンチグラフィは有用か? どのような例に適応するか?…<山科昌平 山崎純一>  102
     b.負荷心エコーは有用か?…<原田昌彦 山崎純一>  106
     c.冠動脈造影の適応:
         可能な例は全例施行した方がよいか?…<新居秀郎 天野英夫 我妻賢司 山崎純一>  113
  3.薬物療法…<吉川 勉>  117
     a.持続性硝酸薬投与は有効か?…  117
     b.ニコランジルは有効か?…  118
     c.カルシウム拮抗薬は有効か?…  119
  4.冠動脈インターベンション PCIとCABG…<宮崎俊一>  123
     a.1枝病変に対する適応,選択は?
        PCIは症状改善効果についても薬物療法より優れているか?薬物療法で狭心症発作が消失した場合に,
        PCIを施行することで予後改善効果を期待できるのはどのような場合か?…  123
     b.多枝病変に対する適応,選択について
        初回治療としてPCIかCABGか?LADを含まない2枝病変の場合はどうするか?…  126
     c.左主幹部病変に対する適応,選択について
        初回治療としてPCIかCABGか?…  130
     d.薬物溶出性ステント使用における注意点…  133
  5.冠攣縮性狭心症…<伊藤 昭 下川宏明>  136
     a.予後と重症度を推定できる臨床所見,検査は?…  136
     b.薬物療法により予後は改善されるか? 薬を止めることは可能か?…  139
     c.Ca拮抗薬は冠動脈疾患としての予後を悪くするのかしないのか?…  140
     d.Ca拮抗薬は冠攣縮の関与がみられる狭心症以外に使用するべきではないのか?
        あるいは薬剤による差があるか?…  144

 D.無症候性心筋虚血<西山信一郎>
  1.無症候性心筋虚血の存在は予後に影響するか?…  145
  2.薬物治療により予後を改善できるか?…  149
  3.冠動脈インターベンション(PCI)の適応は?…  153

 E.冠動脈疾患のリスクファクター
  1.高脂血症…<宮内克己>  157
     a.どの脂質がどのようなレベルになるとリスクになるのか?…  157
     b.二次予防効果がみられる薬物とその投与量,あるいは達成脂質値は?…  163
     c.薬物による一次予防効果の大きさは長年の服薬に値するか?…  167
  2.糖尿病…<中山雅文>  171
     a.冠動脈疾患例では,糖尿病や耐糖能異常診断のために糖負荷試験を全例に行ったほうがよいか?…  171
     b.糖尿病を合併する冠動脈疾患の予後は,合併のない例に比べて不良か?…  173
     c.糖尿病をコントロールすることにより冠動脈疾患の予後改善がみられるか?…  175
     d.糖尿病患者にはすべてアンジオテンシン?
         受容体拮抗薬あるいはアンジオテンシン変換酵素阻害薬を投与したほうがよいか?…  177

◆ II.心不全  181
 A.心不全の診断と予後予測
  1.自覚症状と身体所見は重症度の指標として重要か?…<室生 卓>  182
  2.運動負荷試験(6分間歩行を含む)は予後の指標となるか?…<安達 仁>  187
  3.血液・生化学データにより予後を推定できるか?…<蔦本尚慶 堀江 稔>  194
  4.神経体液性因子(ANP/BNP)により予後を推定できるか?…<猪又孝元>  202
  5.交感神経イメージングは必要か?…<百瀬 満>  206

 B.慢性心不全の治療
  1.第一選択薬はACE阻害薬か?…<上村史朗 斎藤能彦>  211
  2.ARBはACE阻害薬にとってかわるか?…<谷口郁夫 望月正武>  218
  3.ACE阻害薬とARBの併用は有用なのか?…<岡崎英俊 北風政史>  222
  4.抗アルドステロン薬は心不全治療の必須薬か?…<吉村道博>  226
  5.β遮断薬はすべての心不全(NYHA I〜?まで)に有効か?…<宮本浩光>  230
  6.ジギタリスはもう必要ないのか?…<河村修二 松崎益徳>  235
  7.ループ利尿薬の使い方にエビデンスはあるのか?…<百村伸一>  240
  8.経口強心薬(ピモベンダン)は心不全治療に必要か?…<岡本 洋>  243
  9.段階的治療は確立されているのか?…<石坂真二 麻野井英次>  247
  10.バゾプレッシン2受容体拮抗薬は期待できる治療薬か?…<筒井裕之>  252
  11.抗血栓薬(ワルファリン/抗血小板薬)は必要か?…<後藤信哉>  256
  12.拡張障害に有効な治療法は何か?…<大柳光正 岩崎忠昭>  262
  13.なぜガイドラインどおり処方されないのか?…<岡本 洋>  265
  14.合併する貧血は治療する必要があるのか?…<高橋利之>  272
  15.合併する睡眠時無呼吸は治療する必要があるのか?…<高田佳史 山科 章>  277
  16.心不全の運動療法は予後とQOLを改善するか?…<後藤葉一>  282
  17.食事療法(塩分制限,水分制限)は必要か?…<河本修身>  289
  18.心室再同期療法は確立された治療法か?…<佐々木真吾 岩佐 篤 奥村 謙>  293
  19.心不全の外科治療は予後とQOLを改善するか?…<許 俊鋭>  304
  20.補助人工心臓は確立された治療法か?…<中谷武嗣>  309

 C.急性心不全の治療
  1.第一選択薬は利尿薬か血管拡張薬か?…<大柳光正 岩崎忠昭>  314
  2.ジギタリス急速飽和は今でも必要か?…<佐々木達哉>  318
  3.ナトリウム利尿ペプチドはどう使う?…<吉村道博>  321
  4.カテコラミンとイノダイレーターの使い分けはどうするのか?…<鈴木啓介>  325
  5.NPPV(非侵襲的陽圧換気療法)は必要であるか?…<竹田晋浩>  330
  6.貧血は急性期に治療すべきか?…<高橋利之>  335

◆ III.不整脈  341
 A.ペースメーカー
  1.ペースメーカー患者に対する携帯電話による影響はないといってよいか?…<石川利之>  342
  2.ペースメーカーによって心房細動の発生を減らせるか?…<石川利之>  345
  3.右室ペーシングは左室機能を悪化させるか?…<松田直樹>  349
  4.QRS幅が増大している心不全患者は
       全例,両室ペーシング(心臓再同期療法)の適応となるか?…<松田直樹>  353

 B.上室性不整脈
  1.若年者の孤立性心房細動にアスピリンは不要か?…<赫 洋美 内山真一郎>  357
  2.65歳以上の心房細動には全例,アスピリンではなく
       ワルファリンを投与すべきか?…<赫 洋美 内山真一郎>  361
  3.心房細動の除細動前に経食道心エコーは全例に行うべきか?…<赤石 誠>  365
  4.持続が48時間未満の心房細動の停止に適した静注薬は何か?…<藤木 明>  370
  5.持続が1週間を超えた心房細動を停止に導く薬剤は何か?…<藤木 明>  375
  6.いったん進行した心房細動のリモデリングを逆行させることは可能か?…<品川 香>  380
  7.心不全に合併した心房細動のリズムコントロールにACEI,ARBは有効か?…<品川 香>  386
  8.若年者の発作性心房細動例には積極的に肺静脈アブレーションを試みるべきか?…<家坂義人>  391
  9.持続性心房細動であっても肺静脈アブレーションは有効か?…<家坂義人>  394

 C.心室性不整脈
  1.ニフェカラントは器質的心疾患に合併する心室頻拍に対する第一選択薬となり得るか?…<庭野慎一>  397
  2.慢性心不全例に対するアミオダロンの長期投与は生命予後を改善するか?…<庭野慎一>  400
  3.血行動態が不安定な心室頻拍でもアブレーション治療は試みるべきか?…<副島京子>  404
  4.器質的心疾患に合併する心室頻拍のアブレーションに成功したらICDは不要か?…<副島京子>  408
  5.左室駆出率30%以下の心筋梗塞例には全例,予防的ICDを植えこむべきか?…<里見和浩>  412
  6.失神の既往があり,非持続性心室頻拍を認める拡張型心筋症で,
       電気生理学的検査で心室性不整脈が誘発されなければICDは不要か?…<里見和浩>  417
  7.ブルガダ型心電図症例には全例?群薬静注負荷試験を行うべきか?…<横山泰廣 青沼和隆>  422
  8.突然死の家族歴があるブルガダ型心電図症例にはICDを植えこむべきか?…<横山泰廣 青沼和隆>  426

◆ IV.高血圧,高脂血症  431
  1.虚血性心疾患における降圧薬選択はどのようにすべきか?…<桑島 巌>  432
  2.仮面高血圧の対策はどのようにすべきか?…<桑島 巌>  436
  3.糖尿病を合併した高血圧に対しての薬剤選択と降圧目標は?…<島本和明>  438
  4.高血圧性左室肥大は降圧薬で退縮可能か,その選択薬剤は?…<錦見俊雄>  442
  5.高血圧の食事療法にエビデンスはあるのか?…<上原誉志夫>  446
  6.心筋梗塞のリスクとして重要なのはLDLコレステロールか中性脂肪か?…<佐久間一郎>  452
  7.女性のコレステロールは高めでもよいか?…<田中裕幸>  457

索引…  462