序
血栓症はこれまで本邦では比較的まれであるとされていたが,生活習慣の欧米化などに伴い近年急速に増加している.臨床的に問題となるのは,深部静脈血栓症とそれに起因する肺血栓塞栓症である.わが国では人種的に凝固因子の構造異常は少なく,環境因子,妊娠・分娩,手術侵襲による血栓症が主体である.しかし近年,日本人の先天性プロテインS異常症が欧米人よりはるかに多いという報告もみられ,今後日本人特有の血栓性素因として注目されている.わが国における周術期肺血栓塞栓症は,いわゆるエコノミークラス症候群(旅行者血栓症)の100倍以上の発症頻度であり,予防対策の重要性が急務である.そこで,2004年2月に「肺血栓塞栓症/深部静脈血栓症(静脈血栓塞栓症)予防ガイドライン」が発刊され,同年4月からわが国ではじめて予防に対する保険診療,すなわち,「肺血栓塞栓症予防管理料」が新設された.今まさに静脈血栓塞栓症の新しい時代が始まろうとしているのである.
本ガイドブックでは,わが国における深部静脈血栓症および肺血栓塞栓症の現況を紹介し,それぞれの診断・治療・予防対策と問題点を写真や図表をふんだんに取り入れ,それぞれのテーマで専門的にご活躍の先生方にわかりやすく解説していただいた.すなわち,深部静脈血栓症では,病態・疫学・診断・治療を,肺血栓塞栓症では,疫学・最近の動向・病態・診断・鑑別診断,そして内科的および外科的治療について解説した.折りしも2004年10月23日に発生した新潟中越地震の車中泊経験者における深部静脈血栓症や肺血栓塞栓症についても触れ,最近の動向としては,2003年から日本麻酔科学会が調査を開始した周術期肺血栓塞栓症調査結果を紹介した.また,欧米では胸痛をきたす3大疾患である心筋梗塞・解離性大動脈瘤と肺血栓塞栓症の鑑別も重点的に解説した.そして,予防対策として「肺血栓塞栓症/深部静脈血栓症(静脈血栓塞栓症)予防ガイドライン」の概要を総論的に解説し,一般外科領域,整形外科領域,産婦人科領域,脳神経外科領域,泌尿器科領域,救急医学領域,内科領域における予防対策を各論的に解説した.さらに,自治医科大学や近畿大学での病院全体としての取り組みを紹介し,リスクマネジメントとして裁判事例をあげながら,手術前におけるインフォームドコンセントの重要性を強調した.
「肺血栓塞栓症/深部静脈血栓症(静脈血栓塞栓症)予防ガイドライン」が刊行され,「肺血栓塞栓症予防管理料」が算定可能になった現在,もはや周術期の予防対策を講じなくて肺血栓塞栓症が発症し,死亡もしくは重篤な後遺症が残った場合には医療機関の責任が問われることになりかねない.手術に際してはエコノミークラス症候群と同様な静脈血栓塞栓症が起こりうること,そしてその予防および初発症状とはどのようなものであるかを患者に充分説明することが大切である.しかし,どんなに予防しても現在の予防方法では肺血栓塞栓症の発症をゼロにすることはできない.仮に肺血栓塞栓症が発症したとしても,早期発見・早期治療に努めれば救命可能であるため,院内リスクマネジメント体制を日頃から整えておくことが大切である.本稿が先生方の診療の一助になっていただければ幸甚である.
2006年3月 みすずかる信州にて
小林隆夫
目次
I ◆深部静脈血栓症 <榛沢和彦>1
1.病態 2
2.頻度 3
3.原因 4
4.診断 5
5.治療 8
II ◆肺血栓塞栓症 13
1■疫学 <佐久間聖仁>14
1.頻度 14
2.人種差 16
3.今後のPTE症例数予測 16
4.危険因子 17
5.旅行者血栓症(いわゆるエコノミークラス症候群) 18
6.新潟中越地震でのPTE 19
2■最近の動向 <黒岩政之>21
1.周術期PTEの発症状況 21
2.発症時期 22
3.手術部位別にみた発症頻度 23
4.男女間格差 26
5.年齢別発症頻度 28
6.死亡率 29
7.危険因子 29
8.術中発症症例 30
9.経年的変化と問題点 31
3■病態 <宮原嘉之>35
1.病態 35
2.症状 38
3.予後 38
4.合併症 41
4■診断 <中西宣文>43
1.急性PTEの診断 44
2.臨床の現場での急性PTE診断 45
3.検査各論 47
5-1■鑑別診断 -- 急性心筋梗塞 <筒井 洋 本郷 実>56
1.疫学 56
2.症状 56
3.バイタルサイン・診察所見 57
4.検査所見 58
5-2■鑑別診断 -- 急性大動脈解離 <山本 剛 田中啓治>65
1.急性大動脈解離とは 65
2.急性大動脈解離と急性PTEの鑑別診断:症状・理学所見から 65
3.急性大動脈解離と急性PTEの鑑別診断:検査所見から 67
4.急性大動脈解離とPTEの合併 69
6-1■治療 -- 内科的治療 <丹羽明博>72
1.内科的治療 72
2.下大静脈フィルター(IVCF)の種類と適応 76
3.一般的治療手順 78
6-2■治療 -- 外科的治療 <西部俊哉>82
1.急性PTE 82
2.慢性PTE 86
III ◆肺血栓塞栓症/深部静脈血栓症の予防対策 91
1■予防対策の基本 <中村真潮>92
1.予防の対象とリスクの評価 93
2.予防ガイドラインの概要および実施法 94
2■一般外科領域 <左近賢人 池田正孝 門田守人>103
1.一般外科(胸部外科・腹部外科)におけるPTEの頻度 103
2.一般外科領域における予防の実際 106
3.DVTを有する一般外科手術症例における予防対策 108
3■整形外科領域 <藤田 悟>110
1.VTEの発生頻度 110
2.VTEリスクの階層化と予防法 111
3.IPCを下肢手術の術後に用いる場合の注意点 112
4.ターニケットの危険性 112
5.VTE患者の周術期管理について 113
6.ギプス固定の危険性 114
4■産婦人科領域 <小林隆夫>117
1.産婦人科領域におけるVTEの発症頻度 117
2.産科領域におけるDVTの発症頻度 118
3.産科領域におけるPTEの発症頻度 119
4.婦人科領域におけるDVTの発症頻度 122
5.婦人科領域におけるPTEの発症頻度 124
6.産婦人科領域の予防ガイドライン 125
7.VTE既往・合併妊産婦への対応 129
5■脳神経外科領域 <鈴木秀謙 滝 和郎>133
1.発生頻度 133
2.リスクの評価 134
3.予防対策 136
4.すでにDVTを認めた場合 140
6■泌尿器科領域 <島居 徹 赤座英之>143
1.泌尿器科手術後のPTE/DVTの発生頻度 143
2.ACCPガイドラインによるリスク分類とVTE予防法 145
3.術前に血栓症を合併している患者の予防法 147
7■救急医学領域 <久志本成樹 山本保博>151
1.集中治療を要する患者 151
2.外傷 155
3.脊髄損傷 161
4.熱傷 164
8■内科領域 <山田典一>172
1.内科領域におけるVTEの発生頻度と予防法 172
2.内科領域におけるリスク評価と実際の予防選択 176
3.精神科領域における危険因子と注意事項 179
9■自治医科大学での取り組み <瀬尾憲正>183
1.自治医科大学附属大宮医療センターにおける取り組み…183
2.自治医科大学附属病院での取り組み 184
3.脊髄くも膜下麻酔,硬膜外麻酔と予防的抗凝固療法 192
10■近畿大学医学部附属病院での周術期血栓対策の取り組み <保田知生>195
1.近畿大学医学部血栓対策開始前準備期 195
2.予防対策第1期(2002年10月〜2003年9月) 196
3.予防対策第2期(2003年10月〜現在まで) 199
4.産婦人科での予防対策 203
5.当院における予防効果の検証 204
IV ◆医療訴訟の観点から肺血栓塞栓症をみる <竹中郁夫>207
1.インフォームドコンセント 208
2.説明義務 209
3.医療水準 211
4.裁判事例 212
索引 217