序
医学に関する書物は毎日おびただしい数が発刊される.日本人は古来胃弱で胃癌や潰瘍,胃炎などが著しく多いので,消化器病に関する書物も数多い.しかし消化器病研究の進歩はまさに日進月歩であるので,医師は常にその進歩を学び,医療に反映させることが必要である.10年前の教科書はおろか5年前のものでも,昨今の分子生物学や分子遺伝学,さらにevidence-based medicineなどの発展により疾病概念の著しい変化などが生じて,陳腐になっていたりあるいは誤っている場合すらある.
胃の科学の進歩は,なんと言ってもHelicobacter pylori菌の発見であろう.人の胃に細菌が感染しているというshockingな発見である.これまで人類を苦しめてきた潰瘍は消化性潰瘍といわれ,胃壁が胃液の消化作用により発生すると考えられてきた.事実,胃液分泌を阻害する薬剤で潰瘍は数週を経ずして見事に治る.古来,消化性潰瘍の研究は胃液分泌の研究であった.胃液分泌を制するのはノーベル賞につながると考えられて,これまた事実その通りになった.しかし昨今H. pylori菌は消化性潰瘍の他,急性及び慢性活動性胃炎はおろか胃のMALTリンパ腫さらに胃癌発生にも関与することが判明してきた.胃の科学を根底から見直す時が来ている.
1898(明治31)年12月に東京にて,長与称吉が190名の参加者を得て日本で解剖,小児科,眼科学会についで第4番目の医学会である胃腸病研究会を作ってから昨年で100年を経過した.明治の中頃に,世界でも類を見ないほど熱気を帯びて多数の人が胃腸病の研究会に参加した理由は何であったのか? 長与は発会式で,「日本人の疫病中大多数を占める消化器病」といっている.如何に消化器疾患が日本人に多かったかがわかる.現在癌死は日本人死因の第1位を占めるが,その6割強が消化器関連であり,今なお胃癌罹患率は最大である.本書は,日本人に多い胃癌発生に至る過程や早期発見,早期治療の実体を詳細に記述しているほかに,消化を司る胃の諸機能の最新の情報に始まり,食欲や消化のメカニズム,ストレスの働きや,痛みの生じる機序,機能性ジスペプシア(NUD)といわれる消化不良症の概念,H. pylori菌の実体,急性胃炎や慢性胃炎の生じる機序,薬剤やアルコール・喫煙の影響,そして,最近増加を示す吐血・下血例についての詳細とその予防・治療法,また,胃・十二指腸潰瘍のすべてについて詳細に記述している.これらには今日なお議論が沸騰していて結論の出ていないものが多く,その場合は私たちの考え方を述べているが,多くの独断と偏見があるかもしれない.読者の御批判,御叱正を甘んじて受けたい.
臨床実習中の医学生,内科・外科研修中の研修医はもとより,卒後しばらく期間を経ている臨床医,さらに生命科学研究者が本書を読み,胃の科学の進歩を医療に反映していただければ,最大の喜びである.
最後に,本書出版にあたり,順天堂大学医学部消化器内科の教室員一同が日夜臨床と教育に明け暮れる中で最新の胃の科学の現状・問題点・将来への道筋について精力的に執筆してくれた.心から感謝したい.また,私とともに編集の作業に携わってくれた三輪洋人・荻原達雄の両博士に対して,さらに企画の段階から出版に至るまで終始お励ましを頂いた中外医学社の荻野邦義氏に対しても深甚なる謝意を表したい.
1999年2月16日 順天堂医院にて
佐藤 信紘
目 次
1.胃はどんな働きをもっているのか?
−胃の生理学的機能 <山本純子> 1
A.胃の形態について 1
B.胃の機能 2
C.酸分泌機構の詳細 3
D.消化酵素 4
E.胃の働きを促進する薬 5
2.胃はなぜ自分の消化液で消化されないのか?
−胃粘膜防御機構について <大恵一> 7
A.胃粘液,重炭酸の働き 8
B.粘膜微小循環の働き 10
C.プロスタグランジンの作用 10
3.食欲はどうして生じるのか?
−食欲のメカニズム <吉澤孝史> 13
A.食欲の調節機構 13
B.化学感受性ニューロンと食欲調節物質 14
C.化学感受性ニューロンに作用する食欲関連物質 15
D.情動,認知による食欲調節機構 17
4.食べ過ぎはどうしていけないのか?
−消化のメカニズム <渡辺憲一> 19
A.胃液分泌 19
B.胃運動 20
C.各栄養素の消化吸収 22
D.食べ過ぎによい薬 23
5.胃はどうしてストレスに弱いのか?
−脳-胃相関について <宮田隆光> 25
A.消化管ホルモン分泌および胃酸分泌機序における脳-胃相関 26
B.消化管運動における脳-胃相関 28
C.消化管粘膜血流・微小循環とフリーラジカルにおける脳-胃相関 28
D.神経内分泌−免疫系軸としての脳-胃相関 30
E.ストレスに効果的な薬 30
F.ストレスの予防およびストレスに対する生活,食事指導 31
6.胃はどうして痛むのか? −胃運動のメカニズム <田中 大> 33
A.健常人の胃運動機能 33
B.食後期胃運動 34
C.空腹期胃運動 34
D.胃十二指腸疾患と胃十二指腸運動 37
E.胃はどうして痛むのか? 38
7.胃のもたれやムカムカはどうして起こるのか?
−NUDの概念と治療法 <川辺正人> 41
A.もたれ,ムカムカの起こるメカニズム 41
B.NUDの概念 41
C.NUDの薬物療法 42
D.NUDに対する処方例 44
8.胃下垂は病気なのか?
−さまざまな胃の形態とその機能変化 <佐藤謙治> 46
A.瀑状胃 47
B.嚢状胃および蝸牛殻胃 47
C.砂時計胃 48
D.胃軸捻転 49
E.牛角胃 50
F.胃下垂 50
G.胃外性原因による胃の変形 52
H.胃下垂に対する工夫と薬 52
9.腐ったものを食べても大丈夫な機構とは?
−胃の生体防御機構 <中嶋美香子> 55
A.粘膜表面における生体防御 56
B.粘膜内における生体防御 57
C.胃を強くするには 59
10.胃に存在する細菌とは?
−Helicobacter pylori菌の実体 <長田太郎> 61
A.Helicobacter pylori(HP)の発見 61
B.感染と生態 61
C.細菌学的特徴 62
D.胃粘膜損傷機序 62
E.胃癌との関係 63
F.胃悪性リンパ腫との関係 64
G.HPの診断法 64
H.HPの除菌法 66
11.急性胃炎とは? −その症状と原因 <柏倉浩一> 68
A.急性胃炎とは 68
B.急性胃炎の原因と病態 69
C.症候と診断 70
D.治 療 71
12.慢性胃炎とは? −その症状と原因 <杉山由理子> 74
A.概 念 74
B.病理組織学的慢性胃炎 74
C.内視鏡的慢性胃炎 74
D.慢性胃炎の診断へのアプローチ 76
E.症候性胃炎とnon ulcer dyspepsia 76
F.慢性胃炎のSydney分類 77
G.慢性胃炎とH. pylori菌感染 77
H.治 療 77
13.薬物と胃病変の関連は?
−NSAIDs,アルコール,喫煙と胃病変 <藤野琢也> 80
A.NSAIDs 80
B.喫 煙 84
C.アルコール 84
14.胸やけと胃酸の関連は?
−胃酸過多症と逆流性食道炎 <箕輪朋子> 87
A.胸やけの起こるメカニズム 87
B.胃酸過多症とは 87
C.逆流性食道炎とは 88
D.逆流性食道炎の患者に対する処方例 91
15.胃も老化するのか? −胃萎縮,慢性萎縮性胃炎 <石川雅邦> 94
A.加齢による形態変化 94
B.加齢による機能的変化 96
C.治 療 97
16.腸上皮化生とは?
−なぜ,萎縮性胃炎,化生が恐しいのか <松島央枝> 99
A.腸上皮化生とは 99
B.萎縮性胃炎とは 99
C.なぜ化生が恐しいのか 101
D.腸上皮化生にならない工夫は 102
17.胃のポリープとはどのようなものだろうか?
−胃癌はポリープから起こるのだろうか? <寺井 毅> 104
A.胃ポリープの形態 104
B.組織学的分類 104
C.消化管ポリポーシスの胃病変 106
D.胃ポリープの頻度と部位 107
E.内視鏡的治療 107
18.胃潰瘍はどうして生じるのか?−血流,胃運動,
酸・胆汁酸・膵液と細菌のかかわり合い <浪久晶弘> 109
A.攻撃と防御のバランス失調 109
B.胃運動の影響 110
C.粘液の働き 112
D.血流の重要性 113
E.胃潰瘍にならない日常生活の工夫 113
19.胃潰瘍は現在でも怖いのか?
−吐血・下血例や緊急手術例 <大蔵隆一> 115
A.消化管出血からみた消化性潰瘍 115
B.消化性潰瘍における出血 116
C.消化性潰瘍における穿孔 117
20.胃潰瘍の治療法(1)−H2ブロッカーとは? <飯島克順> 120
A.H2ブロッカーとは 120
B.H2ブロッカーの諸作用 121
C.各H2ブロッカーの特徴 122
D.H2ブロッカーの副作用 124
21.胃潰瘍の治療法(2)
−プロトンポンプインヒビター <阿部哲史> 127
A.胃酸分泌とプロトンポンプ 127
B.プロトンポンプインヒビターの特徴 128
C.プロトンポンプインヒビターの問題点 130
D.プロトンポンプインヒビターとHelicobacter pylori 132
22.胃潰瘍の治療法(3)−胃粘膜防御製剤とは? <鈴木聡子> 134
A.胃粘膜防御製剤の作用機序 134
B.胃粘膜防御製剤の適応 136
23.胃潰瘍の再発を防ぐには?
−除菌療法の実際とその評価 <村井敏夫> 138
A.胃潰瘍は再発する病気 138
B.H. pylori菌感染の診断 138
24.胃潰瘍は胃癌になるのか?
−潰瘍と癌の因果関係 <佐藤みき> 142
A.潰瘍癌の存在 142
B.胃潰瘍癌化説 142
C.悪性サイクル 143
D.H. pyloriと胃癌の関係 144
25.胃癌はどのようにしてみつかるのか?
−胃癌の早期診断と集団検診 <太田一樹> 148
A.胃集団検診の歴史 148
B.胃集団検診の方法 149
C.胃癌発見成績 150
D.胃集団検診の診断能 150
E.胃集団検診の現状 151
F.胃癌検診は,どれくらいの頻度で受ければよいか 153
26.胃癌はどれくらいの早さで進行するのか?
−胃癌の発育速度と進展機序 <山田俊夫> 155
A.癌細胞発生初期 156
B.微小癌期 156
C.小癌期 158
D.成熟癌 158
27.癌以外の胃の悪性腫瘍とは?
−悪性リンパ腫,平滑筋肉腫など <今井 靖> 160
A.悪性リンパ腫 160
B.平滑筋肉腫 163
28.胃癌の治療法(1)
−手術療法は進歩しているのか? <大野康彦> 166
A.縮小手術(機能温存手術) 166
B.拡大手術(多臓器合併切除) 168
29.胃癌の治療法(2)
−内視鏡的粘膜切除法の原理と治療成績 <渡邊晴生> 171
A.適 応 171
B.EMRの方法 171
C.EMR後切除標本の病理学的評価 172
D.EMR術前の注意点 173
E.EMR術後の注意点 173
F.EMR後の経過観察 173
G.EMRによる早期胃癌の治療成績 173
H.EMR術後患者のアフターケア 174
30.胃癌の治療法(3)
−抗癌剤(化学)療法の進歩と効果 <岩崎良三> 176
A.従来の治療法 176
B.CDDP併用多剤化学療法 177
C.今後期待される新しい治療法 181
31.胃癌にならないためには?
−胃癌のリスクファクター <板津智子> 184
A.日本における胃癌 184
B.リスクファクター 184
Topics
消化管ホルモン <吉澤孝史> 6
ドーパミン <川辺正人> 32
NO(nitric oxide: 一酸化窒素) <飯島克順> 45
サイトカイン <長田太郎> 67
虚血-再灌流障害(ischemia-reperfusion injury) <宮田隆光> 73
プロスタグランジンとロイコトリエン <藤野琢也> 86
GERD(gastroesophageal reflux disease) <箕輪朋子> 92
エンドセリン <浪久晶弘> 114
活性酸素 <鈴木聡子> 137
癌遺伝子と癌抑制遺伝子 <岩崎良三> 159
増殖因子 <山田俊夫> 165
ウイルスと胃癌 <永原章仁> 188
Keyword
胃粘液 <大恵一> 12
胃痙攣 <渡辺憲一> 24
急性胃粘膜病変 <柏倉浩一> 40
胃アトニー <佐藤謙治> 54
アニサキス <田中 大> 60
Menetrier病 <中嶋美香子> 79
たこいぼびらん <杉山由理子> 79
食道胃静脈瘤の内科的治療法 <箕輪朋子> 93
悪性貧血(pernicious anemia) <大野康彦> 98
ペプシノーゲン,ペプシノーゲンI/II <石川雅邦> 103
胃生検 <渡邊晴生> 108
Dieulafoy(ドュラフォイ)潰瘍 <大蔵隆一> 119
色素内視鏡 <寺井 毅> 126
Zollinger-Ellison症候群 <阿部哲史> 133
吻合部潰瘍 <村井敏夫> 141
前癌病変 <佐藤みき> 147
Borrmann分類 <太田一樹> 154
ダンピング症候群 <大野康彦> 170
異型上皮(atypical epithelium: ATP) <松島央枝> 175
幽門狭窄 <山田俊夫> 183
索 引 189