はじめに
薬物療法をはじめ種々の医学的治療の効果に関して客観的エビデンスevidenceが求められる時代になった.発症頻度の高い疾患ではある治療法に対して大規模検討を行いEBM(evidence-based medicine)を確立することは比較的簡単である.しかしながら,発症頻度の低い疾患あるいは病態が明確に同定されていない疾患ではある治療法に対して確実なEBMを得ることは困難である.現時点においてもEBMを基礎として確立された治療法の数はそれほど多いわけではなく,多くの治療法には確実なEBMが存在しない.以上の事実はEBMを確立していくことは重要なことであるが,そればかりにこだわっていては臨床の現場で実際の治療にあたることができないことを意味する.EBMが明確でない治療を行うということは,ある意味で“経験”に基いた治療を行っていることになる.このような場合には,その疾患の病態を確実に把握し,それに対して薬理作用上有効と考えられる薬物を副作用の発現を最小におさえながら投与するように努力する必要がある.薬物の有効性ならびに副作用の発現は投与量のみではなく投与期間ならびに患者個体の薬物代謝・排泄の効率にも依存する問題であり,患者個体の状況に合わせ投与量・投与期間の調整が必要である.また,薬物間には正の,あるいは負の相互作用が存在する場合があるので複数の薬物を同時投与する際には各薬物間の相互作用に注意を払いながら治療にあたる必要がある.副作用のない薬物は存在しない.それゆえ,不確実なEBMしか存在しない薬物治療を選択しなければならない場合には効果を最大に,副作用を最小に維持する投与法を常に模索する必要がある.
呼吸器疾患は多岐にわたり,呼吸器感染症(一般細菌,結核,真菌など),気道疾患〔慢性閉塞性肺疾患(COPD),気管支喘息,気管支拡張症など〕,間質性肺疾患,肺血管病変(肺血栓塞栓症など),急性肺損傷ならびに肺癌を中心とした悪性腫瘍が治療の主たる対象となる.これら肺・胸郭内に発生する疾患に加え原発性肺胞低換気症候群など脳幹部に存在する呼吸中枢異常に起因するもの,あるいは睡眠時無呼吸症候群など睡眠関連疾患も広義の呼吸器疾患として取り扱われる.これら多様の呼吸器疾患の中で,COPD,気管支喘息に関しては多施設大規模検討から得られたEBMをもとにその具体的治療・管理指針(ガイドライン)が示されている.その他,確実なEBMを基礎としているわけではないが,治療・管理ガイドラインが提唱されているものには市中肺炎,院内肺炎,抗酸菌症などの呼吸器感染症,急性肺血栓塞栓症などがある.一方,間質性肺疾患・急性肺損傷の治療に関しては明確なガイドラインが存在しない.肺癌に関する治療原則はほぼ確立されているが手術適用のない進行性肺癌に対する集学的治療の具体的内容がガイドライン化(マニュアル化)されているわけではない.手術時期を逸した進行性肺癌に対して抗癌薬による化学療法ならびに放射線療法が積極的に施行されるようになっているが,現在施行可能な如何なる治療法も進行期にある肺癌を根治するものではなく,あくまでも肺癌患者の生命予後を延長させるのみである.その意味で,少しでも生命予後を改善させる集学的治療法を求めて種々の新規抗癌薬が積極的に開発されている.さらに,受容体型チロシンキナーゼ抑制物質を用いた分子標的治療など従来のものとは質的に異なる新たな治療法が臨床の現場で試みられるようになった.このように,進行性肺癌の世界にあっては適用薬物が流動的で多岐にわたるのが現状である.現在使用されている抗癌薬は単剤で使用する限り何れの薬物もほぼ同等の奏効率を示す.しかしながら,単剤による化学療法を行うことは少なく,薬理作用の異なる抗癌薬を複数個組み合わせた治療法が選択されることが多い.その場合には単剤使用時の効果からは予測できない反応を示すことがある.その意味で,抗癌薬に関しては単剤の効果とともに他の抗癌薬と組み合わせた時の効果を別々の検討によって検証していかなければならない.このように化学療法の内容が流動的であるため,原則は確立されていてもその具体的治療法としてどの抗癌薬(厳密には,どの抗癌薬とどの抗癌薬の組み合わせ)が最も優れているかに関して短期間の間では普遍的な結論を得ることができない.
呼吸器分野の以上のような現状を踏まえ,各呼吸器疾患に対して現時点で最も正しいと考えられる治療内容を提示することを目的として本書を編集した.治療・管理のためのガイドラインが存在するものに関してはその内容をできる限り正確に紹介するとともにそれ以外の治療法も必要に応じて挿入した.疾患別処方の項においては実際のベッドサイドで真に役立つことを目指し,このような場合にはどう対処,治療すればよいかをできる限りきめ細かく,具体的に提示することを試みた.同じCOPDでも安定期と急性増悪期では治療法が質的に異なる.同じ気管支喘息でも妊娠時,外科手術時などにはどのような工夫をすべきか,逆流性食道炎が増悪因子となっている喘息の治療はどうすればよいかなど,臨床の現場でニーズが高いと考えられる内容をなるべく網羅したつもりである.肺癌に関しても脳転移,高カルシウム血症などに対する対処法,疼痛管理,栄養管理など,実際のベッドサイドで必要な内容に焦点を合わせ記載することを試みた.使用する薬物の詳細(薬物動態,投与量,副作用など)を常に念頭に置くことは重要なことである.そこで薬効別薬物リストを本書の末尾に掲載することによって今使用している薬物の詳細を常時参照できるように構成した.本書が各呼吸器疾患のベッドサイドでの治療に対して真に役立つ内容を提供することを心から願うものである.
2003年1月
山口佳寿博
目次
疾患別処方
A.呼吸器感染症…2
1.かぜ症候群[長谷川直樹]2
a.インフルエンザウイルス2
b.その他のウイルス6
2.細菌性肺炎[伯野春彦]11
a.肺炎双球菌11
b.黄色ブドウ球菌16
c.Streptococcus milleri20
d.インフルエンザ桿菌22
e.肺炎桿菌25
f.緑膿菌28
g.モラクセラカタラーリス31
h.嫌気性菌33
i.ノカルジア36
j.炭疽菌39
3.異型性肺炎[伯野春彦]42
a.マイコプラズマ42
b.クラミジア45
c.レジオネラ48
d.リケッチア(Q熱)52
4.肺結核[長谷川直樹]55
非薬剤耐性結核62
薬剤耐性結核66
5.肺非結核性抗酸菌症[長谷川直樹]72
a.肺Mycobacterium avium complex症74
b.肺Mycobacterium kansasii症77
c.MAC,M. kansasii症以外の肺感染症79
6.肺真菌症[峰松直人]81
a.クリプトコッカス属82
b.アスペルギルス属85
脈管侵襲性アスペルギルス症85
慢性壊死性肺アスペルギルス症87
肺アスペルギローマ88
c.カンジダ属90
7.ニューモシスティスカリニ[峰松直人]92
8.サイトメガロウイルス[峰松直人]96
9.寄生虫[宮尾直樹]98
10.市中肺炎(原因菌同定前)[清水三恵]105
11.院内肺炎(原因菌同定前)[清水三恵]115
12.誤嚥性肺炎(原因菌同定前)[宮尾直樹]124
13.膿胸[宮尾直樹]129
B.慢性閉塞性肺疾患(COPD)とその周辺疾患…134
1.安定期[山口佳寿博]134
2.急性増悪[仲村秀俊]149
3.収縮性細気管支炎[仲村秀俊]154
特発性成人型閉塞性細気管支炎155
移植後閉塞性細気管支炎156
NOx吸入後閉塞性細気管支炎158
膠原病関連閉塞性細気管支炎159
びまん性汎細気管支炎160
C.気管支喘息とその周辺疾患…163
1.安定期[中溝ひかる,浅野浩一郎]163
2.急性発作[中溝ひかる,浅野浩一郎]179
3.妊娠時[鈴木雄介]184
4.外科手術時[鈴木雄介]186
5.アスピリン喘息[中溝ひかる,浅野浩一郎]188
6.運動誘発喘息[鈴木雄介]191
7.ステロイド抵抗性喘息[中溝ひかる,浅野浩一郎]193
8.咳型喘息[松崎 達]195
9.胃食道逆流症[松崎 達]197
10.アレルギー性気管支肺アスペルギルス症[松崎 達]200
D.気管支拡張症…[石井 誠]202
E.間質性肺炎…213
1.特発性間質性肺炎[余語由里香]214
IPF/UIP215
RB-ILD221
DIP/AMP222
NSIP/NCIP223
AIP224
2.特発性器質化肺炎[余語由里香]226
3.サルコイドーシス[余語由里香]228
4.過敏性肺臓炎[山田稚子]231
5.放射線肺臓炎[山田稚子]237
F.好酸球性肺炎…[中島隆裕]240
1.急性好酸球性肺炎240
2.慢性好酸球性肺炎242
G.血管炎…[仲村秀俊]245
1.アレルギー性肉芽腫性血管炎246
2.Wegener肉芽腫症と顕微鏡的多発動脈炎248
3.isolated pulmonary capillaritis251
H.好酸球性肉芽腫症…[工藤裕康]253
I.過誤腫性肺脈管筋腫症…[工藤裕康]255
J.肺癌…258
1.非小細胞癌[副島研造]258
2.小細胞癌[副島研造]265
3.癌性胸膜炎,癌性心膜炎[副島研造]268
4.高カルシウム血症[石井 誠]272
5.脳転移[中島隆裕]275
6.疼痛管理[渡辺秀生]279
7.嘔吐管理[渡辺秀生]285
8.白血球減少予防管理[工藤裕康]290
9.栄養管理[山田稚子]292
K.悪性中皮腫…[清水三恵]296
L.縦隔腫瘍…[石井 誠]300
1.胸腺腫301
2.胸腺癌305
3.胸腺カルチノイド307
4.胚細胞腫瘍308
5.神経原性腫瘍311
6.リンパ性腫瘍312
7.先天性嚢胞314
M.肺血管病変…[坂巻文雄]315
1.急性肺血栓塞栓症315
2.慢性肺血栓塞栓症323
3.原発性肺高血圧症329
4.肺動静脈瘻336
N.急性呼吸窮迫症候群…[黄 英文]340
O.肺胞蛋白症…[黄 英文]353
P.睡眠時無呼吸症候群…[小山田吉孝]355
Q.原発性肺胞低換気症候群…[小山田吉孝]362
R.過換気症候群…[小山田吉孝]365
S.慢性呼吸不全…[石井 誠]368
T.禁煙…[仲村秀俊]377
薬効別薬物リスト
A.抗生物質…[長谷川直樹]382
1.抗菌薬382
2.抗真菌薬404
3.抗ウイルス薬406
4.抗寄生虫薬・原虫薬(カリニ原虫を含む)410
5.抗結核薬414
6.インフルエンザワクチン416
7.肺炎球菌ワクチン416
B.気管支拡張薬…[仲村秀俊]418
1.b刺激薬418
2.抗コリン薬(吸入)424
3.キサンチン誘導体426
4.配合剤428
C.抗アレルギー薬…[浅野浩一郎]432
1.抗ヒスタミン薬432
2.メディエーター遊離抑制薬432
3.ロイコトリエン阻害薬434
4.トロンボキサン阻害薬434
5.Th2サイトカイン阻害薬434
D.ステロイド薬…[鈴木雄介]436
1.吸入用ステロイド薬436
2.内服ステロイド薬436
3.注射用ステロイド薬438
E.鎮咳薬…[伯野春彦]440
1.中枢性麻薬性鎮咳薬440
2.中枢性非麻薬性鎮咳薬440
3.鎮咳去痰配合薬444
F.去痰薬…[中島隆裕]448
1.気道分泌促進薬448
2.気道粘液溶解薬448
3.気道粘液修復薬450
4.気道潤滑薬452
5.界面活性薬452
6.塩類去痰薬452
7.刺激性去痰薬454
G.呼吸刺激薬…[小山田吉孝]456
1.中枢性呼吸刺激薬456
2.末梢性呼吸刺激薬456
3.麻薬拮抗薬458
H.免疫抑制薬…[余語由里香]460
1.代謝拮抗薬460
2.アルキル化剤460
3.生物活性化物質462
I.抗悪性腫瘍薬…[副島研造]464
1.アルキル化薬464
2.代謝拮抗薬464
3.抗生物質466
4.植物アルカロイド薬466
5.トポイソメラーゼ阻害薬470
6.白金製剤470
7.非特異的免疫賦活薬472
8.分子標的治療薬472
J.鎮痛薬…[峰松直人]474
1.非ステロイド性抗炎症薬(NSAID)474
2.非麻薬系鎮痛薬(オピオイド)478
3.麻薬480
K.制吐薬…[渡辺秀生]482
1.セロトニン(5-HT3)受容体拮抗薬482
2.抗ドパミン薬484
3.フェノチアジン系486
4.副腎皮質ステロイド486
L.顆粒球コロニ−刺激因子(G-CSF)…[工藤裕康]488
M.骨・カルシウム代謝薬…[石井 誠]490
1.骨代謝改善薬(ビスフォスフォネート系)490
2.骨吸収抑制薬(カルシトニン製剤)492
N.抗凝固薬…[宮尾直樹]494
1.血栓溶解薬494
2.ヘパリン494
3.経口抗凝固薬496
4.血小板凝集抑制薬496
5.アンチトロンビンIII製剤496
O.血管拡張薬…[坂巻文雄]498
1.Ca拮抗薬498
2.プロスタサイクリンおよびその類似物質498
P.利尿薬…[黄 英文]500
1.サイアザイド系利尿薬500
2.サイアザイド系類似薬500
3.ループ利尿薬500
4.K保持性利尿薬502
5.炭酸脱水素抑制薬502
Q.禁煙補助薬(ニコチン置換薬)…[仲村秀俊]502
R.抗胃食道逆流症薬…[松崎 達]504
1.胃酸分泌抑制薬(H2受容体阻害薬)504
2.胃酸分泌抑制薬(PPI)508
3.消化器運動機能改善薬(抗ドパミン薬)512
S.高カロリー輸液…[山田稚子]514
1.高カロリー輸液用基本液514
2.高カロリー輸液用アミノ酸・糖・電解質液520
T.経胃瘻/腸栄養剤…[清水三恵]524
事項索引…530
薬品名索引…542