プロローグ
最近の胸腔鏡下手術の発展はまことにめざましく,あっという間に広く日本全国で行われるようになった.このように新しく発展した外科手技の場合には,これを学びたい人は多いが,それを教える人が少ないのが常である.この意味ではわれわれの教室は非常な好運に恵まれていた.というのは教室の先輩である若林明夫先生が米国において近年の胸腔鏡下手術のパイオニアの一人として活躍されていたからである.この技術を学ぶため本書の著者の1人である河野匡君を若林先生の許に留学させたのが1990年のことであった.彼は2年間の留学を終了し帰国する頃には米国においてこの技術を学ぼうとする外科医に対して教師の役割を果すことができるまでになっていたのである.彼が1992年に帰国し,われわれの教室でも胸腔鏡下手術が実際に行われ,この技術が教室員に伝えられるようになった.その時にまず河野君に弟子入りしたのが,本書の共著者となっている大塚俊哉君であり,中島淳君であった.この胸腔鏡下手術の有用性が判明するにしたがい,それまで様子をみていた他の教室員もほとんどこの胸腔鏡下手術手技のトレーニングを受けることになった.このようにわれわれの教室の胸腔鏡下手術の手技やトレーニングの方法は米国の若林方式に端を発し,その後教室内で育成されてきたものである.またこの胸腔鏡下手術は片側肺換気下に行われることが多く,麻酔医の役割も非常に重要である.本書の著者の1人の鈴木知子先生は早くからこの胸腔鏡下手術の麻酔を手掛けられ,そのノウハウを会得されたのである.
ちょうど教室でこの胸腔鏡下手術が日常的に行われ,多くの教室員がトレーニングを受けている頃,中外医学社からこの手術の実際について図解の判りやすい書物を書いてくれないかという依頼があった.そこでその頃すでに実地に手術を行っていた河野,大塚,中島の3人の胸部外科医に麻酔の鈴木先生を加えたチームで本書を執筆することとなった.なかでも大塚君は絵が上手なので,シェーマの大部分を担当するようにお願いをした.
本書が執筆されている間に,胸腔鏡下手術に関してもいろいろなことがらがあった.一つ大きいことはこの術式が保険に採用されたことである.もともとこの胸腔鏡下手術は古く人工気胸の際に肺虚脱を妨げる癒着を焼灼,切離するために使用されていた.われわれの教室の前身である木本外科教室でも昭和20年代の中頃何十人という症例にこの手術が行われていたのである.したがってこの胸腔鏡下手術自体それほど新しい手術というわけではないが,保険に採用になる前段階では一時的に高度先進医療として取扱われ,保険に採用になってからもしばらくは施設が限定されるという状況を経過して,最近漸く広く保険医療として行うことができるようになっている.しかしながら現在でも対象疾患が限定されており,注意が必要である.例えば肺気腫に対する胸腔鏡下手術は現在の保険の対象とはなっていない.肺気腫に対しては胸骨正中切開による肺容量減少手術もあり,こちらは保険の制約はないが,胸腔鏡下手術にくらべ明らかに侵襲が大である.保険の制約によって術式の選択に影響がある現状はきわめて遺憾であるが,教室では経済的観点よりも医学的観点を優先すべきであると考え,肺気腫症例には主として胸腔鏡下手術を行っている.この場合には私費としての治療であり,患者側の経済的負担が多く,早急な改善が望まれるところである.
もう一つはこの間にいろいろな手術器械に進歩がみられたことが挙げられる.手術器械の進歩によって手術の安全性と有効性は飛躍的に向上したが,このような最近の進歩も本書の中に取り込むことができた.われわれの教室では胸腔鏡下手術に使用可能な触覚センサーの開発に成功しているが,これについても本書の中に記述されている.ここではこの研究に取りかかった端緒について記しておきたい.それは筆者がMedical Tribune紙で触覚センサーの記事をみたことに始まるのである.旭川医科大学の泌尿器科でインポテンツの検査にこの触覚センサーを試用したとの記事があり,載っている写真ではそのセンサーはカテーテル型の形状をしていた.当時胸腔鏡下手術では,肺表面から見えない腫瘤では,指で触れることができないのでその位置の同定に苦労することが多かったが,筆者はこのカテーテルを胸腔内に挿入すれば指のかわりに腫瘤を触知して,位置を同定することができるのではないかと考えたのである.翌日最初に会った教室員にこの研究をやらせようと思って大学に出掛けたところ,朝最初に教授室に入ってきたのが大塚君であった.彼にこの新聞の切り抜きを渡し,早速その開発者である日大工学部尾股定夫先生に連絡するように話したのである.これが端緒となってロボット工学と胸部外科の共同研究が始まり,それが実を結んだのである.
胸部外科医といっても私自身の専門は心臓血管外科であり,胸腔鏡下手術の主たる対象である呼吸器外科の領域は自分の専門とはいえないが,この胸腔鏡下手術に関する限り,これを本邦ではもっとも早く教室内に導入し,新しい研究にもいささかの貢献をしているので本書のプロローグを書く資格があるものと考えている.
今後の問題としてこの胸腔鏡下手術をどの方向に発展させていくかということがある.このことは本書のエピローグに改めて書かれることになると思うが,ここでは筆者の感じていることをいくつか記しておきたい.一つは肺癌への応用である.当初筆者は肺門部の操作を胸腔鏡下に行うことについて安全性の面から多少心配をしていたが,最近では技術的にすこぶる安定しているため,初期の肺癌では適応をしっかりと決めて胸腔鏡下に肺葉切除術を行うこともすすめている.もちろんこれによって根治性が損われることがあってはならないので,遠隔成績からみた適応決定が最も重要なことがらであるといえる.
もう一つは胸腔鏡の心臓血管外科手術への応用である.筆者は胸腔鏡を体外循環下に心臓内や大動脈内に挿入し,その観察を行った経験があるが,きわめて有用であった.胸腔鏡下手術を動脈管結紮術などに応用している報告もあるが,筆者自身は安全性から考えて必ずしも良い方法であるとは考えていない.冠状動脈バイパス手術に対する内胸動脈の胸腔鏡下の剥離などはそれほど困難ではないが,より複雑な操作では体外循環を使用するなどの安全策を加味していくのがよいのではあるまいか.低侵襲手術としての冠状動脈手術や弁手術なども開始されているが,これらについても胸腔鏡を応用することによってその安全性や有効性が飛躍的に高まるものと考えている.
さてこのように発展を続けている胸腔鏡下手術であるが,その根本は外科医一人一人の技術である.本書では前述したように自らの習った経験と教えた体験に基づいて,そのノウハウを図解して判り易く記してある.本書が胸腔鏡下手術手技習得の手引きとして役立つことを念じてこのプロローグのまとめとしたい.
〈古瀬 彰〉
"目 次
第1章 麻酔―特殊性と工夫
I 術前検査…1
1 呼吸機能…1
2 胸部X線写真・CT…1
3 気管支鏡…2
4 合併心疾患の評価…2
II 分離肺換気…2
1 挿管チューブの選択…2
2 片肺換気時の呼吸生理と麻酔管理…5
III 術中管理(麻酔方法と呼吸管理)…6
1 通常の胸腔鏡下手術(自然気胸,肺生検,肺以外の手術)…6
2 高度閉塞性肺障害患者に対する気腫部焼灼術…8
第2章 手術の準備
I 患者の体位・皮膚消毒…11
II 手術チーム・手術器械の配置…11
第3章 手術器械
I スコープ,カメラ,ビデオ等の光学系器械…15
1 スコープ…15
2 光源…16
3 カメラコントローラー…16
4 ビデオ…16
5 モニター…16
II その他のツール…18
1 排煙トロッカー…18
2 把持鉗子…18
3 Endo-bulldog clamp…20
4 糸掴み…20
5 触覚センサー…21
6 レーザー…22
第4章 胸腔鏡下手術のトレーニング
ステップ1…27
ステップ2…29
第5章 基本的手術手技
I 助手のカメラワーク…35
1 助手用のモニター…35
2 スコープワーク…36
II トロッカー挿入…38
1 どこに挿入するか…38
2 トロッカーの挿入方法…42
3 トロッカーの種類…42
4 ミニ開胸を行う場合…44
III 観察する…44
1 準備…44
2 胸腔鏡で観察される正常解剖学的所見…44
3 一般的な異常所見…45
4 胸腔内所見のとり方―基本的な手技…46
5 さらに進んだ肺内病変の探索法…48
IV 把持する…50
1 組織を把持する…50
2 針や糸を掴む…50
3 Endo-bulldog clamp…50
V 剥離する…52
1 鋭的剥離…52
2 鈍的剥離…53
3 癒着剥離…54
4 腫瘍などの周囲からの剥離…56
VI 切離する…56
1 内視鏡手術用鋏…56
2 電気メス…57
3 自動縫合器…57
4 レーザー…59
5 その他…60
VII 縫合する…61
1 Z縫合,U字縫合…61
2 連続縫合…64
[ 結紮する…69
\ 胸腔から取り出す…72
] 出血,エアリークをコントロールする…73
1 出血…73
2 エアリーク…74
XI ドレーン挿入…78
第6章 各種疾患への応用
I 自然気胸…81
1 体位…81
2 トロッカー挿入…81
3 肺嚢胞の処理…82
4 エアリークテスト…82
5 ドレーン挿入…84
II 肺内腫瘤…84
1 手術手技…85
2 症例呈示…89
3 開胸手術と胸腔鏡手術の併用による新たな術式…90
III 胸壁・縦隔腫瘤…92
1 胸壁・胸膜腫瘤…92
2 縦隔腫瘤…93
3 経胸腔鏡縦隔リンパ節生検法…93
IV 巨大肺嚢胞,嚢胞性肺気腫…95
1 適応と術前準備…95
2 手術の実際…97
V 非嚢胞性肺気腫…100
1 適応基準…100
2 術前検査…100
3 手術手技…100
エピローグ…104
索 引…107