はじめに

 2000年に脳血行再建術(中外医学社)を出版した直後から,多くの読者から,いろいろな貴重なご意見をいただいた.その多くは,技術的なことに関する質問であった.しかし,中には,示された「技術」をどのような患者さんのどのような場合に行えばいいのかが示されていないという厳しいアドバイスも少なからずあった.「技術」の前提として,エビデンスに裏付けられた基礎的な事実の整理とその臨床への展開が必須である.臨床に必要な手技は,ある目的を果たすための単なる道具であり,特に,「脳血行再建」では,そうした理論的な背景が特に重要な領域である.当然のことながら,ただ,血行再建すればいいというものではないはずである.
 そこで,技に溺れないためにも,脳血行再建に必要な理論と実践のまとめをしようというのが,本書である.実のことを言えば,「脳血行再建術」と同時に理論的な部分も平行してある程度は書き溜めていた.したがって,少し追加することで,2000年の段階でまとめることは可能ではあった.しかし,その後,脳血行再建にとって,いくつかの大きな出来事が続いた.それは,(1) 慢性期の脳血行再建の適応に関するエビデンスが得られたこと,(2) 血管内外科治療による急性期血行再建が一般病院にも浸透したこと,そして,(3) 昨年末のrecombinant tissue plasminogen activator(rt-PA)の本邦における臨床使用の認可であった.このために,脳血行再建の臨床は大きく変貌する可能性があった.その意味では,手前勝手な言い訳にしかならないが,この5年間は無駄ではなかったような気がする.

 さて,本書の主題である「血行再建」は現在多くの臓器において注目されているテーマである.心臓領域では,心筋虚血後の再灌流障害,あるいは,心臓移植後に関連した研究が進んでいる.腎臓,肝臓においても移植後の再灌流障害の問題が臨床的な重要性を増している.さらに,最近では,消化管における血行再建も注目を集めている.こうした様々な臓器における血行再建研究の中でも,脳における血行再建は,最も重要であり臨床的な意義も高い.それには以下の二つの理由が考えられる.
 第一には,脳という臓器における血行再建の臨床的な重要性の高さがある.言うまでもなく,脳梗塞は,疾患頻度の点で,日本人においてきわめて高い.再灌流,血行再建が臨床的な問題となるその他の臓器の疾患頻度と比べると,脳梗塞の発生頻度は際立っている.第二には,ここ10年来,脳における血行再建が現実的,実際的なものになってきたという医療環境の変化があげられる.医療環境と言ったのは,理由がある.脳血行再建を臨床的に可能にしているのは,本書で述べられるような局所線溶療法の開発や外科的血行再建技術の普及といった医療技術の進歩がその中心にあることは間違いない.しかし,加えて,急性期の脳血行再建を考えると,発症から3時間以内の治療開始などが実現可能なものでなければならない.すなわち,社会啓蒙や救急の社会システムなどが,急性期脳血行再建に限れば,必須のものである.今日,こうした脳梗塞治療を取り囲む医療環境の醸成が進んでいる.
 脳血行再建は,(1) 洗練された技術と豊富な経験,(2) 血流再開のための基礎知識,診断,適応などに関する知識,(3) 患者への応用のための社会システム・医療体制,という3つの要素が全て整って初めて実現される.それぞれは,独立の領域であるが,深く関連し合っている部分もある.言うまでもなく,本書は,この3つの要素の中の(2)に関するものである.ただ,脳虚血の基礎的な知識や研究を深く掘り下げるとそれは極めて深遠な領域であり,本書のレベルを遥かに超えるものである.こうした基礎的な研究に関しては,浅野孝雄教授らの素晴らしい著書が中外医学社からも出版されており,あえて,本書の筆者らが書き加えることは何もないように思われた.
 しかし,一方で,基礎研究での膨大な知見が臨床と必ずしも直結していないことも明らかである.人における臨床の脳虚血と基礎研究での動物の実験虚血の間には,大きな溝もある.しかし,言うまでもなく,細胞レベルでは共通の現象があると考えられるが,その溝を埋めることは容易ではない.基礎研究で大きな期待をかけられた 数々の治療薬の臨床における失敗もこのことと無縁ではない.
しかし,臨床の脳虚血を理解する上で必要な基礎知識の整理は必須である.本書は,執筆者全員が,臨床で実際に脳血行再建を行っている医師である.したがって,日常診療に直結した基礎知識の整理という意味では,大変よくまとまったものとなったと思われる.また,血管内外科治療による血行再建,脳動脈瘤手術の際の血行再建も全体の中での位置づけを考えて,本書には加えられた.また,最後に,実践で最も重要なリスク管理の立場から,合併症についても言及した.

 脳血行再建が,脳虚血の根本的治療になりうることは,直感的には明らかである.しかし,実際には,時間の制約と技術的な制約から,現実の医療では容易ではない.さらに,血行再建がタイミングと虚血の程度が不適切であると,大きな合併症を引き起こすことも知られている.端的に言えば,正しい基礎知識,画像診断,患者受け入れ態勢,技術が整っていなければ,簡単に行ってはいけないものでもある.本書が技術と理論,そして実践のためのknow-howを学ぶ先生方の日常診療の手助けとなり,患者さんの診療にお役に立てば,幸いである.

平成18年4月21日
札幌医科大学脳神経外科  宝金清博


■ 目次 ■

◆ Chapter 1 脳虚血の病態生理  1
1.脳虚血を理解するために  <宝金清博>  1
  A.3つの概念  1
  B.Therapeutic time window(治療可能時間=時間の窓)  2
  C.Penumbra(救済可能領域)  4
  D.再灌流障害(reperfusion injury)  12

2.脳虚血と再灌流障害の基礎  <松居 徹>  19
  A.虚血に伴う脳細胞障害機構の基礎  20
  B.再灌流に伴う細胞障害機構の基礎  23
  C.ミトコンドリアの機能障害と再灌流  23
  D.再灌流に伴う蛋白質合成能に対する変化  24
  E.再灌流障害と細胞内情報伝達系  25
  F.再灌流と活性酸素種(ROS),サイトカイン  26
   1.Xanthine dehydrogenase/xanthine oxidase  27
   2.Ferrylhemoglobin  27
   3.NADPH oxidase  27
  G.再灌流とNO  28
  H.再灌流と生体内抗酸化機能  28
   1.膜リン脂質障害への防衛機能  29
   2.DNAの修復システム  29
  I.Hyperperfusionと再灌流  29
  J.再灌流とアポトーシス,ネクローシス  30

3.脳血行再建と脳循環・代謝  <黒田 敏>  36
  A.脳虚血の病態生理  36
   1.脳のエネルギー消費は安静時,活動時で大きく変化する  36
   2.脳血流量は複雑なメカニズムにより調節されている  37
   3.虚血閾値とischemic penumbraの概念  37
   4.脳組織の損傷は虚血の程度と時間によって決定される  39
   5.脳には虚血に特に脆弱な部分が存在する  41
  B.脳虚血における脳循環代謝測定の意義  41
   1.脳灌流圧低下により生じる病態  41
   2.脳循環代謝測定の方法論  44
  C.脳血行再建術における脳循環代謝  49
   1.EC/IC bypassに関する国際共同研究について  49
   2.PETと血行力学的脳虚血  51
   3.SPECTと血行力学的脳虚血  53
   4.脳血管反応性とOEFに関する最近の知見  68
   5.そのほかの脳循環代謝測定法  70
   6.脳血行再建術における周術期モニタリング  73

◆ Chapter 2 脳虚血の画像診断 -- 基礎と実践 --   <佐々木真理>  83
  A.脳虚血画像検査の基礎  83
   1.X線CT  83
   2.MRI  85
   3.脳循環検査  88
  B.急性脳虚血の画像診断  91
   1.急性期虚血病変の検出  91
   2.脳虚血の重症度判定  93
   3.血管閉塞の判定  96
   4.出血の否定  96
  C.慢性脳虚血の画像診断  97
   1.無症候性脳梗塞と類似病変  98
   2.梗塞に伴う2次的変化  100
   3.脳血管病変,循環予備能,代謝予備能  100

◆ Chapter 3 急性期血行再建  <宝金清博 入江伸介>  103
  A.基礎から臨床へ  103
   1.3つの脳循環パラメーター  104
  B.画像診断  105
   1.急性期脳虚血画像診断の目的  105
   2.Stroke CTとStroke MRI  108
   3.MRI所見による治療方針の決定(Stroke MRIの実際)  111
  C.治療方針  117
   1.Time managementとフローチャート(クリティカルパス)  117
   2.最初の判断─t-PA判断  119
   3.t-PA治療非適応例  120
  D.急性期血行再建の方法  122
   1.t-PA静脈内投与  122
   2.外科的血行再建  123
   3.血管内外科による急性期血行再建  126
  E.急性期血行再建の実際  126
   1.穿通枝梗塞  126
   2.アテローム血栓性脳梗塞  126
   3.頚部内頚動脈狭窄(急性期内膜剥離術症例)  126
   4.心原性塞栓術  128
  F.急性期血行再建のまとめ  129

◆ Chapter 4 慢性期血行再建  <中川原譲二>  136
  A.脳血行再建術の歴史と展開  137
  B.脳血行再建術の病態生理学的根拠  137
  C.慢性期脳血行再建術のエビデンス  140
  D.血行力学的脳虚血の定量的重症度判定  141
   1.SPECT定量画像解析  141
   2.SPECT統計画像解析  143
  E.慢性期脳血行再建術のガイドライン  148

◆ Chapter 5 血管内外科治療による血行再建  <野中 雅>  153
  A.急性期血行再建術  153
   1.局所線溶療法  155
  B.慢性期血行再建術  156
   1.頚部頚動脈狭窄病変に対するstenting  156
   2.頭蓋内動脈硬化病変に対するPTA・stenting  165
   3.他部位のステント留置術  168

◆ Chapter 6 脳動脈瘤治療における血行再建術の役割  <石川達哉>  170
  A.背景  170
  B.治療戦略と戦術  171
   1.術前の評価  171
   2.術中の評価  173
   3.術後の評価  176
  C.血行再建術の実際  176
   1.親動脈(母動脈)を犠牲にする必要がある場合の,恒久的な血行再建術  177
   2.親動脈(母動脈)の一時的な血流遮断をする必要がある場合の,脳虚血を回避するための一時的な血行再建術  187

◆ Chapter 7 脳血行再建術の実際と合併症  <宝金清博>  196
  A.脳血行再建術に伴う合併症  196
  B.急性期血行再建術の合併症  197
  C.慢性期予防的血行再建術の合併症  197
   1.CEAの合併症  198
   2.バイパス手術の合併症  200
   3.もやもや病に対する手術の合併症  206

索引  211