序

 たとえば,未開のジャングルの奥地を一人で無防備で旅することを考えてみる.ガイドはなし.危険な沼地,猛獣,がけ,気象の激変,そして,やがて訪れる食料不足,あるいは,高熱を伴う風土病.こうしたあらゆるリスクが旅人を苦しめ,目的地への安全な到達を阻むであろうことは容易に想像される.ハリウッド映画であれば,はらはらどきどきさせつつも,最後には素晴らしいエンディングが待っているのだが,おそらく,実際のこうした無謀な行為は,悲惨な結末をもたらすであろう.挑戦者と言われる先駆者は,多かれ少なかれ,こうした一種の無謀さを代償に,新しい途を開拓するものである.しかし,私たちの日常診療にこうした無謀さと明らかな危険を持ち込んでいいという理由はなにもない.インディジョーンズの冒険は,映画の世界だけでたくさんであり,患者さんを道連れにハラハラドキドキの冒険は許されるはずがない.
 脳神経外科の臨床は,ジャングルの無謀な冒険であってはならない.私たち脳外科医の仕事は,患者さんというクライアントを安全に無傷で目的地までおとどけする,知力・体力・気力に満ち満ちたガイドであるべきである.少なくとも,患者さん達は,私たちが賢いインディジョーンズであることを信じてくれている.最初から目的地への安全な到達の達成の可能性があまりに低いとすれば,出発を諦めることも十分に賢い選択である.また,可能だとしても,危険な行程をさけ,遠回りでも安全な途を選択すべきである.また,どうしても危険なルートの選択が必要な場合には,どこにどんな沼地があり,崖があり,急流が待ちうけているのかをできるだけ正確に前もって知る努力が必要である.それも,勘や不正確な経験ではなく,証拠に基づいた定量的な危険度として知識を持ち,危険を回避する技術が要求されている.
 脳外科に限らず,医学の歴史と発展は,こうした暗闇の危険地帯に,明かりを点し,道標を立て,後から続く人々により安全なクルーズをもたらしてきた.私たち脳外科医の先達も,いわば,脳脊髄という未開のジャングルで,何度か,遭難し,途を失い,危険に晒されてきた.こうした患者さんの大きな代償を払いながら,より安全に目的地にたどり着くルートと様々な方法を少しずつ見つけてきた.
 しかし,これは現実の世界では,医療以外でもしばしば起こっているのかもしれないが,成功談とそれによって得られた栄光のルートだけが喝采を浴び,歴史に残り,記録される.一方,無数の失敗,危険なルートの存在,あるいは明らかに愚かな選択などは,忘れ去られ,記録の残ることが少ない.多くの学会発表が成功の発表であり,仮に失敗の発表があったとしても,その多くは,成功談をハイライトするために語られることが多い.また,多くの学術雑誌のレポートは,Journal of Success と言っても過言ではないものもある.忘れ去られるだけであれば問題はないのだが,現実には,先達が迷い込んだ危ないルートに,毎年迷い込む者が後を絶たないのである.
 医療全体が,未開のジャングルでの大冒険であってはいけない時代になっている.以前は困難であった難しい治療の安全性も飛躍的に高まってきた.だからこそ,そのはずれ値である治療の失敗,合併症,事故などが,大きく注目され,社会から批判されるようになってきた.これを防ぐために,どこの病院にもリスクマネジャーがいて,定期的に委員会が開かれ,病院の点検が行われている.たくさんのマニュアルが用意され,報告義務が徹底されている.いわゆるリスクマネジメントが日常診療に導入されている.
 多くのリスクマネジメントの本が出版され,毎月のように講演会が行われている.また,医療事故の報道も大小を含めると,毎日のように新聞紙上や報道番組を賑わしている.巷には,リスクマネジメントに関する情報が溢れている.こうした安全な医療への期待を背景に,多くの how to ものが出版されている.その中に示されているのは,リスクを防ぐこと,リスクが起こった時に被害を最低限にすること,である.しかし,これ以前に重要なことは,どんなリスクが存在して,その頻度はどのくらいであるかということである.
 リスクマネジメントの問題を,一般的に論ずることは重要である.全てのエラーの背景にある普遍的な要素を見抜くことなしに,リスクの発生を有意に低下させることは不可能である.ただ,それぞれの speciallity での特異な問題もあり,一般論の議論に終わることは机上の空論になりかねない.航空機事故のリスクマネジメントや銀行のリスク管理学から学ぶことも確かにあるのであるが,脳外科で実際に起こっていることをあまりに我々は知らないのである.
 本書は,全てのリスクマネジメントに対する一般的な心得を述べたものではない.中国から,インドへ向かう具体的な旅をするインディジョーンズのために,どこに,底なし沼があり,迷宮があり,敵の待ち伏せがあるのかを具体的に示したものである.
 本書は,私たちのクライアント(患者さん)に対しても,どこにどの程度のリスクが存在するかを定量的に示すことができるデータブックとなることを意図して書かれた.当然のことながら,こうしたいわば negative なイベント,しかも,報告するのが逡巡されるようなイベントや合併症のデータは,文献で探すこと自体,大変困難な作業であった.さらに,イベントの内容からして,微妙な配慮が必要な事例がたくさん含まれていた.私たちの立場は,基本的に情報公開を優先するものであり,いわゆる transparency(透明性)が,私たちと患者さんを守る基本的なルールであると考えている.その精神なしには,こうした,負の情報を共有することは無理なことである.とは言え,個人情報・病院情報の保護や,本書の目的以上の情報の over exposure にならないように,十分な配慮をしたつもりである.そのため,通常の症例報告とはかなり異なる部分も多いし,事例の説明に必要なデータのみを記した.また,医療におけるリスクマネジメントという問題が,極めて早い速度で変化している状況を考え,出版に膨大な時間をかけることを避け,新鮮な情報の提供を心がけた.
 ただ,実際に,執筆を進める中で痛感したことは,本文でも触れるが,合併症と事故,あるいはインシデンスの差が微妙であること,そして,何より,リスクマネジメントを本格的に取り上げると,脳神経外科のほとんど全ての問題と関連しており,あまりに大きなテーマであるということである.言い換えると,リスクマネジメントは,医療の本質的な部分であり,特に,リスクの高い脳神経外科のような診療科では,その比重は極めて重い.従って,全てを網羅することは膨大な仕事となることが明らかであった.そこで,本書は,脳神経外科における代表的なインシデンスやリスクを抽出し,できるだけコンパクトなものとすることにした.ただ,それにしても,企画の段階での予想ははずれ,本書のボリュームは膨れ上がってしまった.
 インシデンスを共有し,それを臨床に還元することが,外科の安全を高めるためには,最も重要な作業である.本書は,本邦では数少ない特定の診療領域のインシデンスの共有の機会をめざしたものである.本書が,患者さんとの危険な旅を安全に終え,目標を果たすための脳外科医のガイドブックとなることを期待している.
   2005年3月
   宝金清博


目次
第1章  リスクマネジメントの考え方  1
   1)用語の定義  1
   2)従来の定義  2
    a)厚生省保健医療局国立病院部政策医療課
         リスクマネジメントマニュアル作成指針  3
    b)国立大学病院付属病院長会議  4
    c)札幌医科大学  5
    d)山口大学  6
    e)藤田保健衛生大学医療安全管理指針  6
   3)本書における考え  7
   4)合併症の分類  9
   5)罹病率と死亡率(MorbidityandMortality)  10
   6)エビデンスに基づいた用語の整理  12

第2章  脳神経外科診療のリスク  15
   1)脳神経外科の安全度  15
   2)脳神経外科臨床のリスクの特徴  20

第3章  インフォームドコンセント  25
   1)インフォームドコンセントの要素  25
   2)医師−患者関係  26
   3)脳神経外科のインフォームドコンセント  27
   参考資料  未破裂脳動脈瘤の開頭,クリッピング手術  29

第4章  手術室のリスク  37
A.脳神経外科手術室の一般的リスク  37
 1.概説  37
   1)一般的なリスク  37
   2)脳神経外科手術の特徴とリスク  39
 2.体内異物遺残  41
    深部での綿片遺残  42
    脳室内の綿片遺残  42
    脳表面の手術での綿片遺残  43
    縫合針遺残  45
    シラスコンチューブの先端の残存  46
    体内遺残物の防止策(札幌医科大学手術室)  48
    遺残物対策の効果  51
 3.体位に伴うリスク  52
   1)体位による神経損傷  53
    尺骨神経麻痺  53
    腕神経叢障害  55
   2)3点固定ピンに伴うトラブル  57
    3点固定ピンによる陥没骨折と硬膜外血腫  57
   3)頭位に伴うトラブル  59
    嗅神経障害  59
 4.術中ショック  60
    イソジンアレルギー性ショック  60
 5.術後感染症  62
    開頭術後の感染症  63
 6.患者・術野・左右誤認  65
    術野左右の間違い  65
B.未破裂脳動脈瘤手術のリスク  67
 1.概説  67
 2.穿通枝障害  70
    穿通枝梗塞(1)  70
    穿通枝梗塞(2)  72
 3.術中破裂  74
    術中破裂と母動脈閉塞による脳梗塞  74
    術中破裂に伴う穿通枝梗塞  76
 4.母動脈閉塞  78
    母動脈の閉塞  78
    ラッピング素材による脳梗塞  80
 5.静脈損傷  82
    静脈損傷  82
 6.脳神経障害  84
C.血行再建術のリスク  87
 1.概説  87
 2.CEAの合併症  88
    CEA後の過灌流  88
 3.バイパス手術の合併症  90
    微小血管吻合の閉塞  90
    動脈瘤に対する高血流バイパスの閉塞  92
    バイパス手術後の出血合併症  94
 4.もやもや病の合併症  97
    もやもや病に対するバイパス手術後の虚血合併症  97
 5.過灌流障害  99
    血流遮断・再開通後の過灌流  99
D.水頭症手術のリスク  101
 1.概説  101
 2.感染  102
    腹腔端の感染  102
 3.シャントチューブの迷入  104
    シャントチューブの胸腔内迷入  104
 4.シャント圧の不全  106
    シャント後の硬膜下血腫  106
 5.シャントチューブの位置の不全  108
    シャントチューブの位置不全  108
 6.その他  110
    フィブリン糊によるマジャンディー孔の閉塞  110
E.脳腫瘍手術のリスク  112
 1.概説  112
 2.術後出血114
    髄膜腫の術後出血  114
    Gliomaの術後出血  116
    遠隔部位の出血  118
 3.血管損傷(動脈)  120
    穿通枝障害1  120
    穿通枝障害2  122
    内頸動脈損傷  124
    脳血管れん縮  127
    穿通枝障害  129
 4.血管損傷(静脈)  131
    正常静脈の損傷による術後の出血  131
    海綿静脈洞髄膜腫術後のシルビウス静脈閉塞  133
 5.脳実質損傷  136
    神経核損傷  136
 6.頭蓋底外科に伴う合併症  138
    感染症  138
    頭蓋底手術における静脈損傷  140
F.神経内視鏡手術  142
    第3脳室開窓術に伴う脳底動脈損傷  142
G.脊椎・脊髄手術のリスク  147
 1.概説  147
 2.頸椎前方手術に伴うリスク  148
    頸椎前方固定術でのレベルの間違い  148
    頸椎前方固定術での食道損傷  150
    頸椎前方固定術による反回神経麻痺  152
    頸椎前方固定術中の硬膜損傷  154
    頸椎前方固定術後の腸骨採取部の骨折  156
 3.脊椎後方手術に伴うリスク  158
    頸椎後方除圧術での術後急性硬膜外血腫  158
    脊髄腫瘍術後の髄液漏  159
    頸椎椎弓形成術後の術創感染160
    胸椎レベルの椎弓切除のレベル間違い  161
    脊髄腫瘍手術中の脊髄損傷  162

第5章  脳血管内手術  165
 1.概説  165
 2.虚血性病変治療におけるリスク  167
   1)頸動脈ステント留置術  167
    穿刺部位のトラブル  167
    ステント周術期の心筋梗塞  169
    ステント治療中の脳出血  171
   2)局所線溶療法  173
    局所線溶療法術後の脳出血  173
    局所線溶療法中の血管穿孔  176
 3.脳動脈瘤塞栓術に伴うリスク  179
    穿刺部位に関するトラブル  179
    脳動脈瘤塞栓中のcoilmigration  181
    Smallunrupturedaneurysmの術中穿孔  182
 4.硬膜動静脈瘻治療のリスク  184
    緊急で塞栓術を追加した頸動脈海綿静脈洞瘻  184
    小脳出血をきたした内頸動脈海綿静脈洞瘻  187

第6章  病棟のリスク  191
 1.概説  191
 2.ドレナージ関連のリスク  192
    腰椎ドレナージからのoverdrainage  193
    髄液ドレナージ回路のクランプ解除の遅れ  195
 3.動脈・静脈ラインのトラブル  197
    中心静脈ルートのトラブル  197
    外傷患者の動脈ライントラブル  200
 4.投薬関連のリスク  203
    脳神経外科の化学療法でのリスク  204
    化学療法(ACNU,VCR)に伴う
        サイトメガロウイルス肺炎による死亡例  205
    抗トロンビン剤による大動脈瘤切迫破裂  208
    フェニトインの血管外漏出による組織壊死  210
    リドカインの過量投与  212
    注射剤の誤投与  213
 5.転倒・転落  215
    ベッドサイドでの転倒  216
    窓からの転落  218
    転倒・転落防止  220
 6.静脈血栓症  224
    肺動脈血栓塞栓症  224

第7章  検査リスク  227
 1.概説  227
   1)X線検査のリスク  227
   2)造影検査のリスク  228
   3)脳血管撮影のリスク  230
   4)MR検査のリスク  230
   5)脳血流検査SPECT/PET  234
 2.血管造影の際の神経合併症  237
    脳血管撮影中の多発性梗塞  237
    血管撮影中の血栓塞栓症  240
 3.血管造影に伴うNonNeurologicalな合併症  242
 4.造影剤によるショック  245
    MR造影剤(マグネビスト)による血管造影  247
 5.ペースメーカーとMRI  249
    ペースメーカー患者のMRI検査  249
 6.小児の鎮静  251

第8章  脳神経外科外来のリスク  253
 1.概説  253
 2.投薬関連  254
    外来投薬の内服薬の説明不十分  254
 3.入院の判断  256
    入院が必要であった患者  256

索引  257