最近の分子生物学の進展により,生命科学における研究は目覚ましい発展を遂げている.とくに医学の領域では,疾患の病態生理が分子・遺伝子レベルから解明されるようになって,その知見の蓄積により病態に的確に反応する新しい治療法や正確な診断法がつぎつぎに開発されている.このような研究の飛躍的な進歩の基盤となったのがPCR法の開発である.

 そもそもPCR法は,DNA鎖の有する核酸配列にあって,4種類の核酸でアデニンとチミンが,そしてシトシンとグアニンが相補的に結合する特性を生かして,存在するDNA鎖の塩基配列を鋳型にしてつぎつぎにDNAを合成する方法である.この方法によって少量のある決まった配列のDNAを短時間に効率よく,しかも費用を要せずに増幅させて生合成することが可能となり,単離したDNA鎖の塩基配列を解析することが比較的容易に行えるようになった.しかもこの原理を生かしたDNAを増幅する装置が,その普及とともに安価で小型化され,遺伝子を対象とする研究が,誰でもどこでもできるようになった.この装置の開発と普及なくしては,今日の分子生物学の隆盛は望みえなかったと思う.その功績により,PCR法の発明者であるKary B. Mullisは1993年度ノーベル賞を受賞することとなった.彼は受賞の感想を次のように述べている.「PCR法はたまたまの着想から開発に成功したもので,私自身がこの方法がこれまでに普及し,しかもいろいろな目的に利用されるとは想像もしていなかった.喩えれば,自分のヨチヨチ歩きの子供が幼稚園から小学校,高校そして大学を卒業し,立派な社会人に成長したような感じで,私にとってもこの上ない喜びである」.この方法がいかに優れており,多くの領域の研究において活用されていることを,彼自身の言葉で如実に語っている.

 このように,分子生物学の研究をはじめるに当たって,まず習得しなければならないのがPCR法であり,またその応用についても十分に知っておくことが必要である.本書は,このような研究者のニーズに応えて企画された,文字通りの「PCR法の手引き」である.PCR法の原理についての解説から,実際の使い方,そして応用について体系的に,しかもプラクティカルなポイントを中心にわかりやすく説明されている.はじめから通読されてPCR法を自由に使い応用できる知識を収得されるにもきわめて適している一方,ベンチに備えて必要が生じた場合にすぐに参照できる解説書として利用できるようにも編集されている.

 本書の発行にあたって,企画立案いただいた門脇孝先生,平井久丸先生に深甚の感謝を申し上げるとともに,中外医学社企画部荻野邦義,編集部高橋洋一両氏の御尽力に厚く御礼を述べたい.本書を参考されることにより,研究者の方々の日々の研究の推進にお役に立てればこの上なく幸甚に思う次第である.

                            1998年3月

                            矢崎義雄

目 次

基礎編

1.PCR法とは 〈田平知子,林 健志〉  2

 A.PCRの基本原理  2

  1.増幅の原理  2

  2.反応の特異性  4

  3.効 率  4

  4.忠実性  4

 B.PCR 反応のコンポーネント  5

  1.耐熱性DNAポリメラーゼ  5

  2.プライマー  5

  3.鋳型DNA  6

  4.ヌクレオチドおよび 反応バッファー  6

 C.非特異的増幅への対策  7

  1.hot start 法  7

  2.touch-down PCR  7

  3.nested PCR  7

 D.PCR法の応用  7

  1.単一既知配列の増幅  7

  2.単一未知配列の増幅  8

  3.複数配列の同時増幅  8

 E.コンタミネーションの防止  8

2.PCR法の最適条件の決定法とピットホール 〈萩原弘一〉  10

 A.準 備  10

  1.ピペットマン  10

  2.試薬,チューブ,チップ  11

  3.プライマー  11

  4.コンピュータ,インターネット  11

 B.本 番  11

  1.プライマー,PCRの条件がわかっている場合  12

  2.自分でプライマーを設計し,PCR条件を決定する場合  15

3.PCR産物のサブクローニングとシークエンス 〈大場 基〉  18

 A.サブクローニング  18

  1.TAクローニング  19

  2.制限酵素切断部位導入によるクローニング  21

 B.シークエンス  24

  1.サイクルシークエンス法  24

4.PCR法によるmutagenesis 〈鏑木康志,門脇弘子〉  29

 A.PCR法によるsite-directed mutagenesisの一般的注意点  29

  1.PCRからPCR産物のベクターへの組み込みまでの全過程の確認  29

  2.プライマーのデザイン  30

  3.予期せぬ変異を減らす方法  30

 B.DNA断片をPCRで増幅する方法  30

  1.メガプライマー法  31

  2.制限酵素部位を導入する方法  32

 C.プラスミド全体に対してPCRを行う方法  33

  1.recombination PCR  33

  2.inverse PCR  34

  3.inverse PCR改良型  34

実地編

[A] DNA検出のためのPCR法  40

1.PCR法によるDNA検出のためのストラティジー 〈細谷紀子〉  40

 A.鋳型DNAの調製  40

 B.プライマーの設計  44

 C.反応組成の決定(鋳型DNA,プライマー,dNTP,Mg2+,酵素の濃度)  45

 D.反応条件(温度,時間,サイクル数)の設定  45

 E.PCR反応  46

 F.PCR生成物の検出,解析  47

2.ウイルス肝炎 〈新谷良澄,小池和彦〉  49

 A.デザインのしかた  49

 B.方法とプライマー  49

  1.HBV  50

  2.その他のウイルス  50

 C.結果の解釈  51

 D.トラブルシューティング  51

3.その他の感染症 〈竹脇俊一,永井良三〉  53

 A.臨床細菌におけるPCR法の役割  53

 B.PCR法をデザインする場合の留意事項  53

  1.標的遺伝子を何にするか  53

  2.プライマーの設定  54

  3.DNAの抽出法は何がよいか  54

  4.クロスコンタミネーションの防止策  55

  5.増幅DNAの検出法を何にするか  55

 C.抗酸菌検出の実際  55

  1.デザインのしかた  55

  2.single tube nested PCR  56

  3.塩基特異的オリゴヌクレオチドプローブ  57

  4.臨床材料からの検出・同定  59

  5.トラブルシューティング  60

4.PCR法による感染症の診断 〈米山彰子〉  62

 A.感染症診断におけるPCR法の位置付け  62

 B.施行,結果解釈に際して注意すべきこと  63

 C.PCR法による診断が行われる感染症  64

  1.単純ヘルペスウイルス (HSV)  64

  2.サイトメガロウイルス (CMV)  64

  3.HTLV-I  65

  4.HIV  65

  5.風疹ウイルス  66

  6.肺炎球菌  66

  7.レジオネラ菌  66

  8.マイコプラズマ  66

  9.クラミジア  66

  10.ニューモシスティス カリニ  67

[B] RNA検出のためのPCR法  68

1.PCR法によるRNA検出・定量のストラティジー 〈木下朝博〉  68

 A.RT-PCR法の原理とその応用  68

 B.RT-PCR法の手技  68

  1.RT-PCRでのプライマー設計  68

  2.逆転写酵素反応によるmRNAからのcDNA合成  69

  3.RT-PCRの手技  70

 C.RT-PCR法の定量的解析への応用  72

  1.定量的解析へ応用する場合の問題点  72

  2.RT-PCR法を用いた遺伝子発現定量法  74

2.リンパ系腫瘍におけるサイクリンD1過剰発現の検出法 〈本倉 徹〉  79

 A.デザインのしかた  79

 B.方法とプライマー  80

 C.結果と解釈  82

 D.トラブルシューティング  83

3.C型肝炎ウイルスの定量 〈加藤直也, 白鳥康史, 小俣政男〉  87

 A.デザインのしかた  87

 B.方法とプライマー  87

  1.HCV RNA検出法  87

  2.HCV RNA定量法  88

 C.結果の解釈  90

  1.HCV RNA検出の有用性  90

  2.HCV定量の有用性  91

 D.トラブルシューティング  92

4.PCR法によるRNA検出 〈堤 正好〉  94

 A.PCR法を用いたRNAの検出  94

  1.RT-PCR法を用いたテロメラーゼRNAの検出  94

  2.HCV RNAプラス鎖マイナス鎖の検出  95

  3.エンテロウイルスRNAの検出  96

  4.bcr/ablキメラmRNAの検出  97

 B.RNA検出への応用例の一覧表  99

[C] 染色体異常検出のためのPCR法  101

1.PCR法による染色体異常検出のストラティジー 〈林 泰秀〉  101

 A.染色体転座と悪性腫瘍  101

 B.染色体転座のPCR法による同定方法  102

 C.実際の転座のRT-PCR法による検出  104

  1.t(16;21) -AML  104

  2.骨・軟部腫瘍でみられる染色体転座  104

 D.染色体欠失のPCR法による検出  107

  1.t(1;14)-T細胞型ALL  107

  2.9番短腕 (9p) 欠失  109

2.白血病(11q23転座型白血病) 〈瀬戸加大,小林 優〉  110

 A.デザインのしかた  110

 B.方法とプライマー  110

 C.結果の解釈  113

 D.トラブルシューティング  118

3.悪性リンパ腫 〈赤坂尚司,大野仁嗣〉  120

 A.方 法  121

 B.疾 患  121

  1.デザインのしかた  121

  2.方法とプライマー  122

  3.結果の解釈  124

  4.トラブルシューティング  124

4.PCR法による染色体異常の検出 〈平井久丸〉  127

 A.転座によるキメラ遺伝子の形成  127

  1.慢性骨髄性白血病 (CML)−Ph1染色体  127

  2.急性骨髄性白血病M2−t(8;21)  129

  3.急性前骨髄球性白血病  129

  4.急性骨髄単球性白血病 (M4) /急性単球性白血病 (M5)

    −11q23染色体異常  130

  5.pre-B細胞性急性リンパ性白血病−t(1;19)  130

  6.Ki-1リンパ腫−t(2;5)(p23;q35)  131

  7.Ewing肉腫  131

[D] 点突然変異を知るためのPCR法  134

1.PCR法による点突然変異同定のストラティジー 〈村上善則〉  134

 A.DNAの微視的な変異の検出法  134

 B.SSCP法の原理と方法  135

 C.SSCP解析の概要  136

  1.プライマーの設定  136

  2.プライマー5'末端の放射性標識  136

  3.PCR  137

  4.SSCP解析  137

  5.SSCP解析で異常を示した断片の塩基配列決定  138

 D.方法の解説  138

 E.実験例,応用等  139

 F.変異の意味付け  139

2.糖尿病 〈安田和基〉  143

 A.NIDDMの遺伝因子とPCRの応用  143

 B.単一遺伝子による糖尿病  144

  1.インスリン受容体異常  144

  2.グルコキナーゼ異常とMODY  145

  3.ミトコンドリア異常  147

 C.多因子遺伝病としての糖尿病  148

  1.β3アドレナリン受容体  148

  2.IRS-1多型  149

  3.アミリン多型  149

  4.脂肪酸結合蛋白2 (FABP2)  149

  5.その他  149

3.大腸癌の癌抑制遺伝子 (APC) 〈宮木美知子〉 151

 A.APC遺伝子について  151

 B.PCR法を用いたAPC遺伝子突然変異の検出  151

  1.解析法のデザイン  151

  2.方法とプライマー  152

  3.結果の解釈  155

  4.トラブルシューティングその他について  158

 C.APC遺伝子突然変異の検出感度について  159

4.心筋症 〈木村彰方〉  161

 A.特発性心筋症の原因遺伝子  161

 B.PCRを用いた心筋症の遺伝子変異検出のデザイン  164

 C.cTnI変異検出の実際例(方法とプライマー)  164

 D.結果の解釈  165

 E.トラブルシューティング  167

5.PCRによる点突然変異の検出 〈堤 正好〉  170

 A.PCR法を用いた点突然変異の検出  170

  1.PCR-RFLP法およびARMS法を用いた

    APRT (J型Q0型) 遺伝子型の検出  170

  2.ASO法を用いたN-ras遺伝子変異の検出  173

  3.PCR-SSCP法とdirect-sequence法を用いたp53遺伝子変異の検出  173

 B.点突然変異検出への応用例  176

[E] PCR法を用いた多型分析  178

1.マイクロサテライト多型を用いた個人識別 〈山内春夫〉  178

 A.vWF型(vWA型)  178

  1.分析方法  178

  2.分析結果  179

  3.ある親子の分析結果  180

 B.Y染色体上のマイクロサテライト  181

 C.マイクロサテライトの選択  181

2.多型マーカーを用いたゲノムマッピング 〈三木哲郎〉  184

 A.多型性遺伝子マーカー  184

  1.多型性DNAマーカーとは  185

  2.多型性DNAマーカーの単離  187

  3.マイクロサテライト多型の検出方法  188

  4.連鎖分析  188

3.PCR法を用いたHLAタイピング 〈松下正毅,徳永勝士〉  192

 A.HLA遺伝子の構造とその多型性  192

 B.HLAのDNAタイピング法  193

 C.PCR-RFLP法によるDRB1遺伝子のタイピング  195

  1.第2エクソンの増幅  195

  2.制限酵素による切断・解析  196

 D.PCR-MPH法によるDRB1遺伝子のタイピング  197

  1.第2エクソンの増幅  197

  2.プレートを用いた発色反応  198

4.PCR法を用いたトリプレット病の診断 〈後藤 順〉  202

 A.CAGリピート病のPCR診断  203

[F] ミトコンドリアDNAのためのPCR法  208

1.ミトコンドリアDNA欠失の同定法 〈太田成男〉  208

 A.ミトコンドリアDNAの単一欠失と多重欠失  209

 B.PCRのデザインのしかた:

   PCRによる欠失mtDNAの検出法と欠失の位置の推定  209

 C.実際の方法の例: mtDNA欠失検出の実際  210

  1.全長PCRの利用  210

  2.欠失の確認と欠失の位置の同定  212

  3.コモン欠失の検出法  213

 D.試料の調製法  213

 E.プライマーの設計  214

 F.トラブルシューティング  214

  1.偽バンドが出現する原因  214

  2.PCRがかからない時  214

  3.注意事項: ミトコンドリアDNAの重複  215

2.ミトコンドリアDNA点変異の同定法 〈早川美佳,小澤高將〉  217

 A.原 理  217

 B.第1段階(一次PCR)  224

  1.試 薬  224

  2.器具および装置  224

  3.方 法  225

  4.留意点  226

 C.第2段階(非対称PCR)  226

  1.試 薬  226

  2.方 法  226

  3.留意点  227

 D.第3段階(シークエンス反応)  227

  1.試 薬  227

  2.方 法  228

  3.留意点  229

 E.第4段階(6%ポリアクリルアミドゲルによる電気泳動と

        DNAシークエンサーによる分析)  229

  1.試 薬  229

  2.器具および装置  229

  3.方 法  229

  4.留意点  230

 F.実験例  230

索 引  233