病理診断にたいする臨床のニーズと病理プロパーの先生(本ちゃんと呼ばれていました)とのニーズはかなり異なるところがあります.臨床医はとにかく早く診断をつけて早く治療には入りたいという一念ですが,病理医はやはりプロですから,完全を求めるし,なによりも自分の診断の軸が動いてはたいへん困るので結構頑固に主張します.むかし,日本で早期胃癌を見つけ始めたころ,早期胃癌を癌とは絶対認めず,胃炎(dysplastic gastritisという名前をつけておられたように記憶します)としか言わなかった病理の責任者が居られ,もちろん自分の信念に基づかれたのですからそれはそれで結構なのですが,そのための影響はずっとあとまでのこりました.だって癌と言えないのですから学会発表も出来ないわけでした.

 臨床医も最終診断でなくて良いから,自分で病理標本を見ることが出来る様になりたい,少なくとも自分の受け持ち患者が癌を疑われているのに,病理診断でどうしても癌がでない,それは臨床診断の間違いなのか,それともひょっとして病理診断がおかしいのではないか,そのあたりを少なくともディスカッション出来る目を臨床医ももちたいと念願していたのです.

 そんなこともあり,東大病理学教室にお世話となったのは,東大分院外科入局3年目のことでした.太田邦夫先生のところへ大学院生として入れていただいたのです.もちろん病理はまったくの素人で,いちから病理の先生(私たちと違って「ほんちゃん」と呼ばれていました)に鍛えられました.それから5年半在籍したわけですが,病理標本の見方を諸先輩に教えていただきました.その経験をもとに臨床医でも病理標本を見ることは出来ると考えました.

 「門前の小僧習わぬ経を読む」ではありませんが,こと消化管の病理診断に関してはある程度の自信は出来ました.「本ちゃん」に言わせると噴飯ものかもしれませんが,それが日常の診療に役立つのですから,それでいいじゃないですか,という精神からこの本は出来ています.

 顕微鏡は何処にでもあります.ちょっと覗いてみようよという趣旨でそのための入門書です.消化管の病理を習うのには生検標本はもっとも適当な材料です.たいへん小さく数もせいぜい数個なので,極めて短時間に終了できるからです.わたしは外科(その後第三外科学教室となりました.いまは大学院消化管外科学・代謝内分泌外科学講座となっています)に戻ってから,まったくの素人の外科医が生検標本を見ることで病理診断が出来るように何人も育てました.その過程もあり,この方法にはいささか自信を持っているのです.

 この本は最初は外科臨床医4名で始めました.途中残念なことに倉本 秋先生(高知医科大学総合診療部教授)が赤羽久昌先生に交代しました.赤羽先生は病理の専門医で,あとの 3 人は違います.したがってその目から見るといろいろ厳しい批判が渦巻いているだろうことは予測できますし,実際そうでした.赤羽先生と私の共同執筆になっている第2章,第3章W,X,Yは2人で何回も読み合わせをして,誤っているところは訂正しましたが,2人の意見が食い違うところは私の意見を通してもらいました.また第4章はまったく私の意見です.

 私どもを育てて下さったすべての人々にお礼を申し上げますが,なかでもとくに倉本 秋先生,熊谷市藤間病院の田嶋基男先生,中丸生行技師長に感謝いたします.

 10年かかりました.この間何度も挫折しそうになりましたが,根気よく待ってくださり,励ましてくださった中外医学社の青木社長,担当の荻野さんにこころから感謝いたします.

 言いたいことは

  臨床医も病理標本を見よう

  病理は難しくない

  頭の黒い満員電車は癌だ

   ということに集約できます.

  2003年8月

    大原 毅


目次

1 基本編

病理標本の見方 2

  はじめに 2

   a)生検の目的 2

   b)生検の限界と特殊性 3

 A 顕微鏡の取り扱い 3

  1.顕微鏡の構造 3

  2.顕微鏡の準備 3

   a)レンズ 3

   b)光源 3

   c)目幅と視度調節 4

   d)コンデンサー(集光器) 4

   e)光学フィルター 5

  3.観察方法 5

   a)焦点の合わせ方 5

   b)倍率を変えた観察 6

  コラム 光学顕微鏡の倍率 6

 B 生検組織標本の取り扱い 6

  1.検体の採取 6

  2.標本作製 6

  3.染色法 8

   a)ヘマトキシリン−エオシン染色 8

   b)PAS−Alcian blue染色法 8

   c)線維染色 8

   d)内分泌顆粒の染色 10

   e)悪性リンパ腫の診断 10

   f)その他の染色法 11

  4.標本の特殊な切り出し法 11

   a)深切り標本 11

   b)連続切片 11

 C 消化管の組織像 11

  1.食道 11

   a)肉眼解剖 12

   b)食道壁の構造 12

   c)粘膜の組織像 12

  2.胃 16

   a)肉眼解剖 16

   b)胃壁の構造 16

   c)粘膜の組織像 18

  3.十二指腸・小腸 22

   a)肉眼的解剖 22

   b)小腸壁の構造 22

   c)粘膜の組織像 22

  4.大腸 26

   a)肉眼的解剖 26

   b)大腸壁の構造 26

   c)粘膜の組織像 26

 D 病理組織学的診断の記載 28

  1.胃生検組織診断分類 28

  2.大腸癌診断のための生検組織判定基準―生検グループ分類― 28

2 入門編

消化管生検の見方 30

 A 入門編; 病変の見方概説 32

  1.顕微鏡の見え方 32

  2.標本の見方,染まり方 32

  3.生検標本に何が見えるか 32

  4.正常構造とそれからのかけ離れ 34

  5.低倍率から高倍率へ,各倍率で見ておくべきもの 34

   a)低倍率(40倍)にて見ること 34

   b)中倍率(100倍・200倍)にて見るもの 36

   c)高倍率(400倍)にて見ておくこと 38

  6.それ以後の操作 38

 B 構造から―形から入る 39

  1.細胞異型 39

  2.構造異型 39

 C 鑑別診断へ 42

  1.臨床医にとってどういう鑑別診断が最も必要か 42

  2.分化度,異型度,悪性度について 42

  3.分化癌と未分化癌 43

  4.悪性度について 43

 D 各論 44

  1.腺癌 45

   a)分化癌 45

   b)未分化癌 47

  2.その他の主な悪性腫瘍 55

   a)扁平上皮癌 55

   b)腺扁平上皮癌 56

   c)癌肉腫 56

   d)粘表皮癌(食道) 56

   e)腺様嚢胞癌(食道) 56

  3.カルチノイド腫瘍 58

  4.リンパ腫および悪性リンパ腫 60

   a)第1目標について 60

   b)第2目標について 61

   c)第3目標について 62

  5.間質性腫瘍 62

 E 悪性腫瘍と鑑別を要する疾患 63

  1.悪性腫瘍との鑑別を要する病変 63

   a)再生異型 63

   b)過形成 64

   c)化生 65

   d)変性 65

   e)腺腫 66

   f)異所性組織 66

   g)異形成 67

   h)潰瘍底の壊死性肉芽組織と癌 68

  2.間葉系腫瘍についての問題点 69

  3.炎症論(胃炎,Crohn病) 69

 F まとめ 70

3 実際編

I 食道 〈下山省二〉 72

 A 扁平上皮癌 72

  1.高分化扁平上皮癌 75

  2.中分化扁平上皮癌 76

  3.低分化扁平上皮癌 76

 B 異型上皮 77

 C 食道炎 79

 D 顆粒細胞腫 81

   コラム 消化管癌における用語の違い 80

 E Barrett食道 82

 F その他 82

  1.Leukoplakia 82

  2.Papilloma 82

II 胃〈下山省二〉 84

 A 胃癌 84

  1.乳頭状腺癌 84

  2.高分化管状腺癌 85

  3.中分化管状腺癌 86

  4.低分化腺癌 87

  5.印環細胞癌 88

  6.膠様腺癌 90

  7.低分化腺癌や印環細胞癌と鑑別を要する細胞や病変 90

  8.印環細胞癌と鑑別を要する場合 92

 B 胃の異型上皮巣 95

 C 慢性胃炎 100

  1.萎縮(過形成)性胃炎 100

  2.化生性胃炎 102

  3.疣状胃炎 103

 D ポリープ 104

 E 胃潰瘍,びらん 106

 F 悪性リンパ腫 112

 G MALT lymphoma 116

 H GIST 119

  1.平滑筋腫 119

  2.平滑筋肉腫 119

  3.神経鞘腫 120

  4.異所性胃粘膜 120

  5.異所性膵 120

 I カルチノイド 122

 J その他 123

  1.形質細胞の免疫グロブリン 123

  2.ヘリコバクターピロリ 123

III 十二指腸〈下山省二〉 126

 A Brunner腺過形成 126

 B 異所性胃粘膜 126

 C リンパ濾胞過形成 126

 D 腺腫,癌 128

IV 小腸〈大原毅 赤羽久昌〉 130

V 大腸疾患〈大原毅 赤羽久昌〉 132

 A 大腸疾患総論 132

 B 大腸腫瘍 133

  1.大腸腫瘍総論 133

  2.大腸癌 133

   a)大腸癌総論 133

    コラム1 136

   b)大腸癌各論・組織型 138

    コラム2 細胞異型(=核異型)の3点セット 140

    コラム3 低分化腺癌と未分化癌 142

  3.大腸の良性腫瘍 159

   a)大腸の良性腫瘍総論 159

   b)大腸腺腫総論 159

    コラム4 ポリープ 159

   c)大腸腺腫(adenoma)各論 160

    コラム5 severe dysplasiaという言葉について 162

    コラム6 ジャーゴン jargon 163

    コラム7 171

   d)腺腫以外の良性ポリープ 176

    コラム8 いわゆる化生性ポリープ metaplastic polyp

      および過誤腫性ポリープ hamartomatous

       polyp 180

    コラム9 183

 C まとめ 186

  1.大腸の上皮性腫瘍のまとめ,結局は表現型の違いだけ 186

  2.大腸腫瘍の生検診断のまとめ 186

    コラム10 basal cell hyperplasia 186

Y 消化管の炎症性疾患〈大原毅 赤羽久昌〉 187

 A 総論 187

  1.消化管における炎症論―消化管における炎症とは何か―

    炎症の定義 187

  2.下部消化管(大腸・小腸)の炎症性疾患の特徴と分類 188

   a)特徴 188

   b)分類 188

  3.組織像の特徴 188

 B 各論―大腸における代表的炎症 189

  1.急性炎症 189

   a)急性大腸炎 189

   b)虚血性腸炎 191

   c)アメーバ赤痢 194

   d)薬剤性大腸炎 196

  2.慢性炎症 198

   a)潰瘍性大腸炎 198

   b)Crohn病 200

   c)分類不能な慢性腸炎 203

   d)孤立性直腸潰瘍症候群 204

   e)特殊性炎 205

   f)子宮内膜症(エンドメトリオーシス)の腸管播種(転移) 208

   g)炎症と癌について 209

4 私の主張

 A 再生の意義 212

 B 胃の再生上皮と腸上皮化生 213

 C 胃生検のグループ分類(胃生検組織診断基準)を見直そう

  ―臨床医の目から― 214

  1.Group I・IIについて 214

  2.Group IIIについて 214

  3.Group IV・Vについて 215

  4.実地臨床面から 215

 D 大腸腺腫の発生(腺腫発生一元論) 216

 E 腺腫の悪性ポテンシャル,hyperplastic polypとadenomatous polyp 217

 F 大腸癌組織発生論から20年 220

索引 223