序
 この本は,Anna Bassoが著わした,Aphasia and its therapyの全訳である.Bassoは,書字障害が他の言語の障害がなくても生じることを明らかにしたこと,古典的局在論と合わない例外例(前頭葉に病変を有しながら流暢性の保たれた失語例など)がまれならず存在することを指摘したこと,などで知られる失語学の研究者であり,なおかつ言語療法の実践者である.そのBassoが長年の失語に関する知識や経験を集大成し,一人で書き上げた本がこの本である.
 そんな立派な本であれば原文を読むからよいという方もおられよう.しかし日本は明治以来ずっと翻訳を通して,外国の文化を消化してきた.新しい西洋の知識を得るとき,日本人はあくまでも日本文化の独立性を保つために,さまざまな訳語を用いて外国語を日本語に置き換えた.これが明治の翻訳主義と呼ばれる方式である.それを推進した福沢諭吉をはじめとする明治の先達の果たした貢献はきわめて大きい.その翻訳という作業のおかげで,多くの人々が同じ言語表現で討論したり文章表現することができたのである.翻訳を通して理解することと,自分で直接外国語の原文を読むこととで,たとえば独創性に差が生じるなどの違いがありえるだろうか.明治時代のことを考えても,その両者で差が生じるとは思えない.そうであるのなら,翻訳されたものを読むことで良いのではないか.
 最初に我々訳者一同は,失語に関する勉強会をしようと計画していた.そうしたところ,この本とめぐりあった.そして失語についての理論と実践を学ぶために,この本は最適であると思いいたった.どのようにこの本を消化したらよいかについて我々は,明治時代と同じように,この本の翻訳を行うのが良いと考えた.毎週会合を開いて訳を進めていったところ,幸い翻訳として出版して下さるという暖かいお申し出を中外医学社からいただいた.実際のところ,この翻訳の作業はかなり楽しいものであった.理由は,あくまでもこの本が面白い本であったからである.お読みいただければすぐわかると思うが,この本は,今後の日本における失語研究や日常の臨床に必ずや役立つと思われる.
 なおこの本の翻訳についてであるが,第1章,4章,8章は武田克彦が,第2章と5章は宮崎裕子が,第3章,6章,9章は今井眞紀が,第7章,11章は鷲崎一成が,第10章は海野聡子が担当した.その後で訳語などの統一を図った.不十分な点も多々あると思われる.ご叱正をいただければ幸いである.
2006年正月
  武田克彦


目次

  Arthur Bentonに捧げる…i
  序論…ii
第 1 章◆歴史を振り返って  1
  A.連合主義者たちのモデル…3
    Paul Broca  3
    Carl Wernicke  5
    Ludwig Lichtheim  7
    Jules Dejerine  9
  B.全体論的モデル…11
    John Hughlings Jackson  12
    Pierre Marie  13
    1908年の討論について  14
    Kurt Goldstein  15
    Eberhard Bay  16
    Hildred Schuell  17
  C.Norman Geschwindと新連合主義者…18
  D.Luria学派…19
  E.結論…21

第 2 章◆失語の分類  23
  A.Luriaの分類…25
    力動性失語  26
    求心性運動失語  27
    遠心性運動失語  27
    感覚失語  28
    聴覚 -- 記憶失語  28
    意味失語  28
  B.新連合主義者分類…29
    Sylvius裂周囲症候群  30
    外Sylvius裂症候群  33
    全失語  35
    皮質下失語  36
  C.失語検査…37
  D.新連合主義者理論のいくつかの限界…39
    集団  40
    病因  41
    発症後の時間  41
    失語テスト  42
    例外  45
  E.別の臨床的アプローチ…45
  F.結論…49

第 3 章◆失語の治療 -- 第一次大戦〜1970年代 --  52
  A.第一次世界大戦〜第二次世界大戦…53
  B.第二次大戦〜1970年代…54
  C.刺激法…55
  D.行動変容アプローチ…59
  E.Luriaの機能再編成アプローチ…62
  F.語用論的アプローチ…66
  G.神経言語学的アプローチ…69
  H.新連合主義者的アプローチ…73
  I.結論…80

第 4 章◆失語治療の有効性  82
  A.自然回復…83
  B.コントロール群をおかない臨床研究…86
  C.慢性期の失語患者の治療効果について…89
  D.治療群と非治療群…91
  E.異なる治療法と異なる治療者の比較…97
  F.治療の期間と頻度/程度…102
  G.メタアナリシス…103
  H.グループ研究と症例研究…108
  I.歴史的な展望…111
  J.結論…112

第 5 章◆認知神経心理学  114
  A.仮定…116
  B.症候群と単一症例研究…119
  C.連合と乖離…121
  D.エラー分析…122
  E.アクセス障害と貯蔵障害…123
  F.失読失書症候群…125
    古典的失読症候群  125
    古典的失書症候群  127
    認知失読症候群  128
    認知失書症候群  132
  G.結論…134

第 6 章◆辞書  136
  A.辞書 -- 意味システムの構造…137
    意味システム  137
    入力辞書と表出辞書  138
    音韻的辞書と正書法的辞書  140
    音韻的辞書と正書法的バッファー  143
    非辞書的ないし変換手続き  145
    辞書的処理と非辞書的処理間の相互作用  146
  B.内的構造と処理過程…149
    聴覚的分析システム  149
    抽象的な文字同定システム  150
    音韻的辞書と正書法的辞書  151
    意味システム  155
    音韻的表出バッファー  159
    正書法的表出バッファー  160
    変換規則  161
  C.損傷の機能的局在の特定…164
  D.結論…166

第 7 章◆認知リハビリテーション  168
  A.呼称障害…169
    Raymer,Thompson,JacobsとLe Grand(1993)  169
    Greenwald,Raymer,RichardsonとRothi(1995)  170
    Le DorzeとPitts(1995)  172
    Miceli,Amitrano,CapassoとCaramazza(1996)  174
  B.文レベルの障害…175
    Garrettの文産生モデル  175
    Mitchum,HaendigesとBerndt(1993)およびMitchumとBerndt(1994)  179
    Haendiges,BerndtとMitchum(1996)  181
    Thompson,Shapiro,とRoberts(1993)およびThompson,Shapiro, Tait,Jacobs,とSchneider(1996)  183
  C.読みの障害…186
    ColtheartとByng(1989)  188
    Bachy -- LangedockとDe Partz(1989)  189
    BerndtとMitchum(1994)  190
    BerhmannとMcLeod(1995)  192
  D.書字障害…193
    CarlomagnoとParlato(1989)  193
    Aliminosa,McCloskey,Goodman -- Schulman,とSokol(1993)  196
    De Partz(1995)  198
  E.結論…200

第 8 章◆失語治療の理論を求めて  202
  A.機能的障害と正常な認知構造…204
  B.どの機能的障害が改善可能なのか…204
    意味システム  205
    正書法的入力辞書  205
    音韻的表出辞書  205
    正書法的表出辞書  206
    音素 -- 文字素変換  206
    文レベル  206
  C.神経学的メカニズム…207
  D.回復に影響を与える因子…210
    個人的な因子  210
    損傷に関連した因子  211
    認知機能について  212
  E.学習…213
  F.実行…217
    何を  217
    誰に  218
    どのくらいの期間  219
  G.結論…221

第 9 章◆辞書および文の障害のリハビリテーション  223
  A.聴覚的分析システム…224
  B.抽象的文字同定システム…224
  C.入力辞書…225
  D.意味システム…226
    意味システムに対する治療  227
    さらなる示唆  229
  E.表出辞書…234
    アクセス障害と貯蔵の障害  234
    さらなる示唆  238
    誤反応  245
  F.出力バッファ…247
  G.変換規則…248
  H.複数の障害…250
  I.文レベル…252
    マッピング仮説  253
  J.結論…258

第 10 章◆重度の失語と語用論  259
  A.患者の選択…261
  B.語用論…263
    直示  263
    前提  263
    会話の推意  264
    発話行為  264
  C.会話の構造…265
  D.知識と状況の共有…267
    共有知識  268
    状況的文脈  269
    言語的文脈  269
  E.命題内容…270
  F.リハビリテーション…271
    話順交替  273
    話し手としての役割の治療者  274
    聞き手としての役割の治療者  276
  G.結論…278

第 11 章◆最終言  280
  A.扱わなかった話題…282
    画像研究  282
    コネクショニスト・モデル  283
  B.治療の過程…284
  C.治療上の契約…287
  D.現実…288
  E.結語…290

◆付録…292
 1.系統的な標本抽出と偶然の観察:2つの教訓談  292
   A.単一症例アプローチの教訓談  292
   B.ランダム化された統制実験の教訓談  296
 2.SEMMELWEIS  298
文献…301
索引…335