脳内物質という言葉は,医学用語ではない.近年,脳神経科学に対する一般の関心が高まってきたことを背景に,神経伝達物質や神経修飾物質を,ホルモン,内分泌物質と区別するために用いられるようになったものと思われる.少なくとも,医学用語事典には記載されていない.しかし,脳内物質という用語は意外と本質をついているように思われる.古代ギリシャの医師,ガレヌスによって提唱された精気論の中の精神精気によく対応した概念に通じると考えられるからである.
 古代ローマ時代にうち立てられた精気論は非常に説得力があり,1000年以上にわたって西洋医学を支配したとされる.ところが,実証を重んじるサイエンスが,ルネッサンス,産業革命の頃に開花したのを契機に,精気論の三つの要素のうち,自然精気と生命精気はサイエンスの言葉で書き換えられた.自然精気はブドウ糖(クロード ベルナールによる発見)をはじめ血液中の諸成分として,そして,生命精気は酸素として同定された.最後に残った精神精気は20世紀に入って脳神経科学の発展とともに,その実体が次第に明らかになってきた.アセチルコリン,ノルアドレナリン,ドパミン,セロトニン,エンケファリンなど,非常に多種類の物質が同定され,その精神機能や脳神経機能に対する役割が明らかにされつつある.
 この解説書ではこれら脳内物質のうち,次の特徴を持つ神経系について取り上げた.その物質を情報伝達に利用する神経が,脳の広汎な領域に軸索を投射して,さまざまな脳神経機能に影響を与えるものである,という特徴である.対象となる脳神経機能は,認知,行動,情動,記憶,運動,感覚,自律など,あらゆるものである.これらの諸機能は,従来の生理学テキストでは,大脳皮質,辺縁系,間脳,小脳,脳幹,脊髄など,脳の局在論をもとに,階層的に説明されてきた.しかし,ここで取り上げる神経系は,それら階層構造に縦横に情報網を張り巡らしているシステムである.その神経の回路網を機能に関連づけて辿ることによって,脳神経系をシステム生理学的に見ることができると考えられる.これが,本書の題名の由来である.
 具体的には,ここで取り上げた神経系は,セロトニン神経,ノルアドレナリン神経,ドパミン神経などモノアミン神経系,似たような特性を持つコリン作動性神経,さらには,バゾプレシン含有神経,オキシトシン含有神経,CRF含有神経,そして最近発見されたオレキシン神経などである.これらの神経細胞は,最も原始的な脳である脳幹(間脳も含む)に分布して,大脳皮質から脊髄まで,広汎な脳領域に投射し,影響を与えている.一体,このような広領域投射ニューロンの生理的意義は何であろうか.それぞれを統一して説明できる概念はあるのだろうか.これが本書を企画した当初からの問いであり,現在まで続いている問いである.部分的には解答を見出し得たものもあるが,依然としてはっきりしないままに残されているものも多い.一つの答えは,広領域に投射することから,ある特定の「状態」を形成する働きをしているということである.睡眠や覚醒の状態,不安の状態,快情動の状態,依存症の状態,元気の状態などなどである.
 本書ではイラストを多用した.まず神経回路網の全体像を描き,それにポイントとなる生理機能データを組み合わせて示すように工夫した.すなわち,構造と機能の統合に心懸けた.ただし,脳の図としては,ラットの脳を主に用いた.取り上げたテーマは,情動や認知に係わるものも多く,それらについてはむしろ人の脳で議論されるべきものであるかもしれない.しかし,生理学では認知や情動の問題もラットなどの動物モデルから得られたデータを基礎としていることが多い.したがって,ここではラットの脳を基本のイラストとして使い続けた.
 本テキストの対象者は,神経科学に興味を抱くあらゆる読者である.直接に研究に携わる人々を対象にしたものではないので,研究の方法論などは述べられていない.神経科学に関心を持つ人々に対して,脳神経をシステムとして理解するための道案内役となれればと願っている.例えば「セロトニン神経系」という山に登るには,どういうルートがあり,それぞれの場所からの見晴らしはどのようなものであるかを,私の目を通してガイドしたつもりである.
 本書は,1998年5月から2004年9月まで月刊誌「Clinical Neuroscience」に連載した「システム神経生理学」に加筆,修正して仕上げたものである.

2006年 盛夏
有田秀穂


目次

   セロトニン神経系
    1. 分布,投射,活動様式
    2. 運動系への促通作用
    3. ペースメーカー,オートレセプター,各種の入力
    4. ゲインコントロール
    5. 不安と5-HT1A受容体
    6. レム睡眠の抑制
    7. 海馬θ波と記憶への影響
    8. 内側前頭前野とうつ病
    9. 片頭痛とスマトリプタン
    10. 生物時計の同調機構への影響
    11. 自閉症の病態との関係
    12. CRF神経を介するストレス反応への影響
    13. 延髄縫線核とSIDS

ノルアドレナリン神経系
    1. 分布,活動,求心性入力
    2. ストレス,HPA軸,CRFとの関係
    3. 延髄A1/A2領域から室傍核への投射
    4. 覚醒との関係
    5. 中脳中心灰白質との関係
    6. 扁桃体への投射
    7. 小脳への投射
    8. パニック発作と窒息警報
    9. 注意欠陥多動症との関係
    10. ナルコレプシーとオレキシン
    11. 前脳基底部コリン作動性神経への入力
    12. 平衡調節と不安の連関

ドパミン神経系
    1. 分布,投射,活動様式
    2. 黒質緻密部から尾状核への投射
    3. 側坐核と情動行動
    4. 前頭前野への投射と不安
    5. 薬物依存症との関係
    6. 依存症における構造的変化
    7. セロトニン神経系との相互作用
    8. 弓状核とプロラクチン
    9. あくび,覚醒との関連
    10. 統合失調症の陽性症状と陰性症状
    11. 注意欠陥多動症との関

コリン作動性神経
    1. 分布,投射,基本機能
    2. PGO波形成機構とレム睡眠
    3. 視床とGABA作動性抑制
    4. 中隔・海馬経路とθリズム
    5. 筋トーヌスの抑制
    6. 前脳基底部の発射活動と脳波との関係
    7. Meynert基底核と皮質の賦活
    8. 皮質ニューロンの細胞内記録と覚醒・睡眠
    9. 大脳皮質の形態形成に及ぼす影響
    10. ムスカリン性受容体と学習・記憶
    11. 脳血流と血液脳関門への影響
    12. 夢と妄想

ヒスタミン神経系
    1. 分布,投射,活動
    2. 覚醒系としての役割
    3. エネルギー代謝調節への影響
    4. 動揺病,嘔吐との関係

オキシトシン神経
    1. 小細胞性神経の分布と軸索投射
    2. ストレス反応との関係
    3. 覚醒との関係
    4. 性行動とステロイドの影響

バゾプレシン神経
    1. 大細胞性神経と小細胞性神経
    2. ACTH分泌と慢性ストレスとの関連
    3. 視交叉上核の中枢時計からの出力
    4. 性差発現に関係する扁桃体/分界条床核

CRH神経
    1. ストレスと視床下部・下垂体・副腎皮質軸
    2. 脳内神経伝達物質としてのCRFの働き
    3. 青斑核ノルアドレナリン神経への影響
    4. 摂食抑制作用
    5. Barrington核と排尿・排便調節

VIP神経
    1. AChとの共存と血管拡張作用
    2. 視交叉上核とサーカディアンリズム
    3. ニューロペプチドPACAPとの関係

オレキシン神経
    1. 分布と機能
    2. ナルコレプシーとオレキシン2受容体
    3. 飢餓時の摂食関連行動

索 引