◆ 序 ◆
 精神病,とりわけ統合失調症は,奇異で,時として畏怖の念さえ起こさせる疾患である.精神病研究者の多くが,はじめに魅せられるのが,その奇異さである.尋常でない症状は,人の体験の何らかの核心に触れるようにみえる.働き始めて最初に担当するのが慢性期の統合失調症患者だと,疾患のために本人が荒廃し家人が疲弊した姿が,心に焼きついてしまうものだ.旧来の精神保健環境の利用者には,統合失調症で慢性的な能力低下にさいなまれた人が多い.こういう環境で臨床訓練を受け,勤務していると,我々の多くがそうであるように,統合失調症は本来慢性疾患で能力低下をもたらすものだという偏見が染みついてしまうのである.
 メルボルン市の研究チームは,精神保健におけるパラダイム転換を目の当たりにしてきた.精神病性障害の早期発見と早期介入の重要性を再認識した彼らは,1980年代終わり以降,研究と診療が連動したプログラムを開発し,初期の精神病に関連する様々な分野にわたる活動を展開している.本書は,これらの分野の中で特に重要で興味深い領域の起源,基本的考え方,発展を記すものである.1990年代,Alison Yung,Patrick McGorry,Lisa Phillipsらは,重度の(症状が出揃った)精神病に1年以内に発展する可能性がある「超高リスク」状態の人をみいだすための,操作的基準を作成した.発病リスクの最も高い個人をみいだすために,種々の危険因子の組合せを検討する「囲い込み」戦略の中で,その基準を駆使した.彼らが開発した基準は,治療的介入を排除することなしに,精神病の一次予防という究極の目標に適うという点で,重要である.
 本書は,新たな研究焦点が如何にして生み出されたかを物語るものであり,研究の歴史的潮流,基本概念,研究成果,倫理的側面,治療サービスの立ち上げと運営の実現性について概説する.精神病の発病リスクのある精神状態at risk mental states(ARMS)にある症例のために,筆者らが個人・危機評価クリニックPersonal Assessment and Crisis Evaluation clinic(PACEクリニック)を開業したのは,1994年であった.英国でこのようなサービスが設立されたのは,筆者らに遅れること10年近く後であり,現在では,似たようなサービスと研究プログラムが世界中で始まっている.メルボルンチームの方法の画期的な点は,超高リスク(「前駆的」ともよばれることがある)状態の治療と病態を多職種共同研究し,これに革新的サービスを結びつけたことにある.この分野の研究により,精神病の謎の多くが解明される可能性があるといっても過言ではない.サブクリニカルな精神状態が存在するからこそ,精神病そのものの本性についての議論が行われるのである.ある精神病を定義づける症状の重症度に,本当に段階的変化があるのか?あるいは,我々は結局,連続的な範囲の現象学を扱っているのであって,個々人で異なる閾を超えると,自ら悩むか機能が障害されるということなのだろうか?
 見逃してはならないもう一つの焦点がある.それは,若者に的を絞ったことである.
 John Keatsの詩Endymion(美しいものは永遠の喜びである,と謳う詩)は,冒頭でこう述べる.
 「少年の想像力は健康であり,大人の成熟した想像力も健康である.だが,その間には人生経験があり,魂はかき乱され,人柄は定まらず,生き方もはっきりしない……」
 この焦点の重要性は,本書で強調する通り,いくら高く評価してもし過ぎにはならないであろう.

 マンチェスター大学,精神医学・行動科学科 精神医学教授
 Shon Lewis


◆ 監訳者序 ◆
 慢性疾患を前駆期に診断し治療することは難しく,あまりうまくいかないのが普通だ.それは,前駆期の診断が,正常範囲内の現象や,いくつもの疾患に共通する症状群の中から,後に疾患に発展するであろう徴候を探り当てる,高度に専門的な作業だからである.また,すでに顕現した病像に基づいて疾患が定義され治療法が開発されているので,その定義や治療法が未発展の病像に適用できるはずがないからでもある.
 統合失調症の前駆期に関する研究は我が国でも盛んであり,臨床に根ざした素晴らしい論考がいくつも発表されている.だが,ともすれば,多数例のデータに基づく実証的研究よりは研究者の名人芸に頼った論証が注目を集めがちである.いかにわかりやすく,説得力のある議論であっても,それが本当に妥当なものであることが示されぬ限り,その議論が及ぶ範囲には自ずと限界がある.この限界を超えるためには,地道な実証的研究を積み重ねていくしかない.
 本書には,その原題
 “Treating Schizophrenia in the Prodromal Phase”
 から想像されるよりもかなり多岐にわたる事項(驚くべきことに,臨床研究を進める上での具体的ノウハウまでも)が記されている.読者諸賢の知識の整理や研究方法の確立のために,本書は必ず貢献するであろう.
 本書の翻訳を企画し監督したのは宮岡である.訳出にあたり,原文を手分けして訳し,最後に齋藤が文体と訳語を統一した.御気づきの点があれば,どういうことについても,御叱正を頂きたい.

 2005年8月
 監訳者  宮岡 等 齋藤正範


◆ 日本語版への序 ◆
 統合失調症などの精神病の前駆期とは,本人が症状や困難を体験してはいるものの,明らかな精神病の症状が現れるよりも前の時期をいう.前駆期を特徴づけるものは,ある程度の苦悩,機能低下,そして害を及ぼしうる行動である.
 明らかな精神病の発病により近い時期には,弱い(閾下の)精神病症状を体験することがしばしばある.これら諸症状は,種々の割合で精神病性症状に移行し,有害な波及効果をもたらす.たとえば,他者が自分に悪意を抱き,あるいは自分を嗤っているという確信があると,社会から引きこもり,学校・大学・職場へ行けなくなり,自分の家族や友人さえも疑うようになり,家族や友人に対する態度が変わってくる.
 前駆期のうちに介入を行い,精神病性障害による荒廃化を予防することは,臨床家にとり長年の目標であった.研究者達もまた,前駆期を同定し,精神病の発病に影響する因子の研究を希求してきた.
 我々のグループは,10年以上にわたり,「前駆症」の同定という問題に取り組んできた.本書はこの取り組みの概要を紹介するものである.取り組みを始めた頃の我々の頭の中にあったのは,精神病の発病リスクが極めて高い人たちを捕まえるための何らかの基準を,経験的に作り上げること,という単純な考えであった.そして我々は,診療と研究を積み重ね,時として複雑な臨床像を管理する技術を向上させながら,同定基準に磨きをかけてきた.我々は薬物療法と心理社会的療法の双方を検討し,今日までに得られている結果は本書にも盛り込んである.そして最後に,この分野の将来の方向性について,我々の考えを本書で表明した.
 宮岡 等教授,齋藤正範講師をはじめ,この分野に関心を抱き,本書の翻訳の労を執られた日本の同僚諸氏に対し,謝意を述べたい.また,年余にわたり我々とともに歩んで来られた,PACEの患者の皆さんや御家族の方々にも,心から謝意を表する.

 メルボルン市
 Alison Yung


目次
第1章◆本書の概観  1
    用語について  2
    本書の起源と謝辞  3

第2章◆予防と早期介入のための前駆症の意義  5
  1.前駆症には症状があり,みいだしうる  5
  2.精神病「前駆症」への介入 -- 指向的予防モデル --  8
  3.要約  10

第3章◆概念と背景の諸問題  12
  1.精神病における前駆症状の概念  12
  2.前駆症状の始まりの定義  14
   a.前駆症状は後方視的概念である  14
   b.正常と異常の区別  15
  3.精神病の発病の定義  17
  4.前駆症の特徴  24
   a .症状と徴候  24
   b.前駆症のパターン  27
   c.前駆症の持続期間  28
  5.前駆症の特徴(要約)  30
  6.前駆症を前方視的に認識する  30
   a.精神病の危険因子としての前駆症 -- 発病リスクのある精神状態at risk mental state(ARMS)という用語の紹介  30
   b.偽陽性の最小化 --「濃厚な集団」の活用  32
  7.囲い込み戦略  34
  8.要約  38

第4章◆超高リスクサービスの開設  43
  1.臨床のインフラを確立する  44
   a.サービスの設立  44
   b.スタッフの募集と訓練  46
  2.対象となる群をみいだし,サービスへの接近を促す  47
   a.社会教育の役割  47
   b.鍵となる紹介元に的を絞る  48
   c.紹介元  49
   d.紹介プロセス  52
  3.若者をサービスへ導入する  54
   a.サービスに関する理論を説明すること  54
   b.現にある不調についての話し合い  55
   c.超高リスク(UHR)状態の人への情報伝達  55
   d.スティグマを扱う戦略  58
  4.介入方法の開発と,サービス終結へ向けての計画  59
  5.要約  59

第5章◆超高リスク患者の臨床ニーズ  62
  1.臨床資源  63
  2.超高リスク(UHR)集団の臨床ニーズ  63
  3.超高リスク(UHR)群への臨床的介入  67
   a.最初の評価をする時期  67
   b.ケースマネージメント  68
   c.緊急時と時間外の対処  69
   d.心理教育  71
   e.家族への働きかけ  73
   f.心理学的治療  75
   g.精神薬理学的治療  80
  4.治療の終結  84
  5.治療のための臨床ガイドライン案  86
  6.要約  87

第6章◆臨床と研究の接点  92
  1.超高リスク(UHR)研究の倫理  92
  2.一般的な倫理事項  93
  3.超高リスク(UHR)研究に関連する事項  94
   a.未成年者の募集  94
   b.研究参加に関する,親への情報提供  94
   c.臨床試験  95
   d.対照としての偽薬の使用  96
  4.超高リスク(UHR)研究に特有な事項  96
   a.リスクと予防の研究  97
   b.非精神病群への抗精神病薬投与  99
   c.新たな臨床概念の具体化  100
  5.超高リスク(UHR)研究の実践的事項  101
   a.研究に編入するタイミング  101
   b.研究スタッフとの顔合わせ  102
   c.通常の臨床ケアと研究の区別  102
   d.研究と臨床ケアの相互作用  103
   e.同意手順  104
  6.要約  105

第7章◆超高リスク研究の成果  108
  1.超高リスク(UHR)基準の検証  109
  2.超高リスク(UHR)群における精神病発病に関連する因子の同定  115
   a.精神症状  115
   b.物質濫用  117
   c.ストレス  118
  3.精神病発病の神経生物学  120
   a.脳画像  120
   b.嗅覚識別  124
   c.認知機能評価  124
   d.産科合併症  126
   e.膜脂質化学の変化  127
   f.ウイルス  127
  4.治療研究  129
   a.抗精神病薬療法  129
   b.抗うつ薬  130
   c.リチウム  130
  5.精神療法  132
  6.結論  132
  7.要約  133

第8章◆今後の方向性  141
  1.若年者の精神疾患の増加傾向  141
  2.重篤な精神疾患の疫学と成人期への移行 -- 陰性の相乗効果  142
    そもそも疾患とは何か?  143
  3.指向的予防 -- 精神障害の予防の最先端?  151
  4.将来の研究デザイン  154
  5.神経生物学と神経防御  154
  6.結論  155

◆付録
CAARMSの概要  160
  目的  160
  CAARMSの構造  160
  症状と機能の概観 -- 経時的変化  160
思考内容の障害  161
  妄想気分と困惑(明確となっていない考え)  161
  奇妙でない考え(明確となった考え)  161
  奇異な思考(明確となった考え)  162
  思考内容の障害 -- 概括評価尺度  163
  頻度と持続  164
  症状の出現パターン  164
知覚の異常  165
  視覚の変化  165
  聴覚の変化  165
  嗅覚の変化  165
  味覚の変化  166
  触覚の変化  166
  体感の変化  166
  知覚の異常 -- 概括評価尺度  167
  頻度と持続  168
  症状の出現パターン  168
解体した会話  169
  主観的変化  169
  解体した会話の客観的評価  169
  解体した会話 -- 概括評価尺度  170
  頻度と持続  171
  症状の出現のパターン  171
研究への編入基準  172
精神病閾/抗精神病薬治療閾  174
研究中断閾  175
 攻撃性/危険行為  175
  (本人への質問)  175
  (情報提供者への質問)  175
 攻撃性/危険行為 -- 重症度評価尺度  176
  頻度と持続  177
  症状の出現パターン  177
 自殺と自傷  178
  自殺と自傷 -- 重症度評価尺度  178
  頻度と持続  179
  症状の出現パターン  179

索引  181