品川百景第二十三番『利田神社と鯨塚』



利田神社

 旧目黒川の河口にできた砂嘴(きし)の先端に弁天堂が祀られていた。洲崎弁天ともいわれ浮世絵師歌川広重(うたがわひろしげ)の名所江戸百景の一つにも描かれている。寛永3年(1626)、今から約360年前に沢庵和尚が弁才天を祀ったことに始まると伝えられる。明治になって利田神社になり、祭神も弁才天から市杆島姫命にかわった。

鯨塚

 富士山の形をした石塚で「鯨碑」と篆書で書かれ、当時の俳人谷素外が鯨捕獲の経過と自らが詠んだ句「江戸に鳴る 冥加やたかし なつ鯨」が刻まれている。

鯨塚にまつわる話

 利田神社のあるあたりは昔、目黒川の旧河口にできた大きな洲で、洲崎とよばれていましたが、南品川宿名主の利田家が中心となって切り開き、利田新地という名の人が住む土地となりました。そしてこの南側の一帯は、漁業にたずさわる人々が住む漁師町でした。  寛政10年(1798)、の5月1日のことです。折からの暴風雨にまどわされたのか、一頭の大きな鯨が品川沖に現れました。  猟師たちは、初めて見る鯨に驚き、町中大騒ぎとなりました。「これを逃しては品川の猟師の恥だ」とばかり、総出で小舟を操り、大きな音や大声を出して追いかけました。やっとの思いで鯨を天王洲の岸へと追い込み、砂浜に乗り上げたのを捕まえることができました。  この出来事はすぐに品川宿の人々に伝わり、珍しい海の生き物を見ようと、我も我もと浜へでかけ黒山のような人出となりました。やがて江戸市中の人々にも広まり、「かわら版」にも取り上げられたことから、鯨見物の人々は競って船を借り上げその値段をつり上げたということです。漁師町の漁民の懐には、思いがけない大金が転がり込んだわけです。  品川沖で大きな鯨を捕まえ、多くの見物人でにぎわっているという話は第11代将軍家斉の耳にも入り、「是非見たい。」とのおおせがありました。そこで今の浜離宮、当時の浜御殿沖まで、鯨の死体を小舟にくくりつけて引いて行き、ご覧に入れました。  将軍は大そう喜び捕鯨に活躍した漁師たちに「猟師町元浦」と書いた旗を贈ったそうです。長さが約18mという大きな鯨の死体は、やがて腐り始めたので、止むなく総出で解体し、油を搾りました。また背骨は分解して持ち帰り、家のあちこちに置いて、手水鉢の台や縁台に使ったそうです。  これ以外の沢山の骨は、利田神社境内に集めて埋め、この上に建てたのが富士山のような形をした「鯨塚」の碑です。 


品川百景一覧へ