poomaniac Masabumi Kikuchi Official Site
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〜1970 spacer 1939年10月19日、東京に生まれる。6才よりピアノと音楽理論を学び、芸大付属高校作曲科を卒業後、58年に自己のトリオでプロデビュー。直後から、ライオネル・ハンプトンの日本ツアーや、映画「乾いた湖」(監督:篠田正浩、脚本:寺山修司、作曲:武満徹)へのフィーチャード・ピアニストとしての参加など、多彩な活動を通して、音楽界の注目を集める。66年には、富樫雅彦とともに渡辺貞夫カルテットに参加。この渡辺貞夫カルテットでの「jazz&bossa」が菊地の初レコーディング。67年、日野皓正との双頭による日野=菊地クインテットを結成。同年録音の「日野=菊地クインテット」はベストセラーを記録し大きな反響を呼ぶ。 しかし菊地は「ダウンビート」誌の海外コンテスト入賞により、奨学生としてバークリー音楽院留学が決定しており、 その活動は翌年9月までと定められていた。なお、渡米前にソニー・ロリンズの日本ツアーに参加している。バークリー音楽院ではウィリアム・マルーフに就いて作曲を、ハーブ・ポメロイに就いて音楽学と編曲を学ぶ。69年帰国。ダブルピアノ、ダブルドラムによる菊地雅章セクステットを結成。「再確認そして発展」、続いて「POO-SUN」をレコーディング。ギル・エバンスやリー・コニッツも取り上げた名曲「ダンシングミスト」はここで生まれる。さらに、ジャズと邦楽の融合を図った「銀界」を尺八の山本邦山、ベースのゲイリー・ピーコックとレコーディング。ゲイリーとの長い親交はこの時にはじまる。
1971〜1975 spacer 71年には、マル・ウォルドロンの日本ツアーへの参加や、ジョー・ヘンダーソンを招いてのツアーやライブ・レコーディングなど、アメリカのミュージシャンたちと積極的に活動をともにする。さらに72年1月には渡米し、エルビン・ジョーンズ・グループに参加し、ニューポート・ジャズ・フェスティバルをはじめ、ニューヨークやトロントなど各地で演奏。さらにエルビン・ジョーンズと「ホロー・アウト」をレコーディング後、帰国する。直後、映画「ヘアピン・サーカス」(監督:西村潔)のサウンドトラックを手掛ける。7月、かねてより敬意を表していたギル・エバンスを招きコンサートを行うと同時に、「MASABUMI KIKUCHI with GIL EVANS」をレコーディング。 ギルの全面協力のもと、オーケストラル・ジャズを展開させた。この時から、ギルと菊地とは音楽的同志として強く結ばれることになる。さらにこの年、ジョニー・ハートマンの日本ツアーに参加している。73年、ついに日本を離れ米国に移住。ニューヨークを本拠地とする。再びエルビン・ジョーンズ・グループに加入し、アメリカ、そして南米を回る。またこの年のギル・エバンスのカーネギー・ホール・コンサートで菊地の作品が取り上げられる。74年には、ソニー・ロリンズのボストンでのコンサートに参加。75年には、菊地より少し遅れてニューヨークに移住した日野皓正との双頭コンボ「東風(KOCHI)」を率いて来日し、全国ツアーを行う。同年「ニューヨーク・ジャズ・レパートリー・カンパニー」のチャーターメンバーにただ一人のアジア人として選ばれる。
1976〜1980 spacer 76年、日野皓正、そしてアル・フォスター、スティーブ・グロスマン、デイブ・リーブマンらニューヨークのミュージシャンと「WISHES/KOCHI」をレコーディングする。そして77年、ギル・エバンス・オーケストラに参加。この年のイングランド・ツアー時に「LIVE AT THE ROYAL FESTIVAL HALL」をライブ・レコーディング。ギルは「彼は単に日本の菊地ではない。世界のキクチなんだ」と菊地の音楽に対する理解をさらに深め、菊地はギル・エバンス・オーケストラに、以後3年間在団することになる。そして78年、ギルやアル・フォスターの推薦で、マイルス・デイビス・グループに参加。1年間にわたってマイルス・デイビス、アル・フォスター、サム・モリソン、T.M.スティーブンス、ジャック・デジョネットらとリハーサル、レコーディングを繰り返す(未発表!)。マイルスも「菊地はキース・ジャレットと並ぶ俺のフェイバリット・ピアニストだ」と菊地を高く評価した。80年、ギル・エバンス・オーケストラのパブリック・シアター・コンサートにおいて、キーボード・プレイヤーと同時にライブ・レコーディングのプロデューサーも兼任。ギルの菊地に対する信頼度の高さが伺える。「LISTEN TO THE SILENCE LIVE AT THE PUBLIC THEATER」として発表される。80年、ニューヨークのサウンド・アイディアズ・スタジオに、十数人に及ぶ参加ミュージシャンの全楽器、PA機材をライブ同様にセッティングして、スタジオ・ライブ・レコーディングを行う。この時、菊地の使用したキーボードだけでも17台。このセッションは2週間にわたって続けられた。
1981〜1985 spacer 81年、サウンド・アイディアズ・スタジオでのセッションを「SUSTO」、そして「ONE -WAY TRAVELLER」として世界同時発表。絶大な評価を得る。その圧倒的なグルーブは今も褪せることはなく、現在のクラブシーンでもプレイされ続け、96年のクラブDJたちとのコラボレーション・アルバム「RAW MATERIAL #1」の実現へとつながっていく。83年、ニューヨークのクラッカー・ジャップ・スタジオに膨大な数のキーボードをセッティングし、リアルタイム・シンセサイザー・パフォーマンスによるレコーディングをスタート。自身で構築した音のモチーフに対し、リアルタイムでインプロバイズしてゆく菊地単独によるこの作業は以後5年間、88年まで続けられる。
1986〜1990 spacer 6年間の沈黙を破って87年、リアルタイム・シンセサイザー・パフォーマンスによるアートビデオ「月・小夜子・山海塾」、「浮世絵−さがしてた女」を発表。さらに、やはりリアルタイム・シンセサイザー・パフォーマンスによる6連作CD、「六大=地・水・火・風・空・識」を発表。そして88年、ファンクをベースにしたALL NIGHT, ALL RIGHT, OFF WHITE BOOGIE BAND(AAOBB)を結成。来日し、渡辺貞夫と共演する。日本の観衆の前にほぼ9年ぶりに、しかもファンクをひっさげて現れ、ファンの度肝を抜く。以後、菊地はジャンルを超えた精力的な活動に復帰していく。89年には、初のソロピアノアルバム「ATTACHED」を発表。AAOBBとは対称的に、ソロピアノの可能性を極限まで追求した静謐で内省的な世界を展開する。さらに90年、ニューヨークのクラブでゲイリー・ピーコックとギグ。これをきっかけに菊地雅章(p)、ゲイリー・ピーコック(b)、ポール・モチアン(ds)によるピアノトリオ、「TETHERED MOON」が誕生する。10月には、レコーディングも果たす。(この内容はしばらく発表されず幻のファーストと呼ばれていたが、97年に「FIRST MEETING」として発表。)以後、ソロピアノ、TETHERED MOONは菊地の重要なプロジェクトとなっていく。
1991〜1995 spacer TETHERED MOONが、ニューヨークのジャズクラブVISIONE'Sでワールドデビュー。そして2枚のアルバム「TETHERED MOON」(91年)、「TRIANGLE」(92年)を連続して発表。3人の圧倒的なインタープレイにより、久々の大型ピアノトリオの登場として世界から歓迎される。さらに95年にはクルト・ワイルの作品を取り上げた「PLAY KURT WEILL」を発表し初来日。また94年には青山Body&Soulで27年ぶりに日野=菊地クインテットをリユニオン(この時のみ、臼庭潤、本田珠也、岡田勉の日本人メンバー)。再結成と言いつつも、その音の内容はヒップホップやファンクのグルーブを持ったアコースティックジャズという、まったく斬新なもの。翌年にレコーディングした「ACOUSTIC BOOGIE」(グレッグ・オズビー、ジェイムズ・ジナス、ビリー・キルソン)は、スイング・ジャーナル誌ジャズ・ディスク大賞金賞を日本人アーティストとしては20年ぶりに受賞する。並行してソロピアノにも注力し、94年には青山Body&Soulで、2週間にわたる深夜のソロピアノライブをアルバム「AFTER HOURS」に凝縮して発表。さらに95年には、ソロ「LOVE SONGS」を発表し、同年には、モントリオール・ジャズ・フェスティバルにソロで出演。その深いリリシズムが話題を呼ぶ。他にも、富樫雅彦と「CONCERTO」(91年、スイング・ジャーナル誌ゴールドディスク)、ジェイムズ・ジナス、ビクター・ジョーンズと「feel you」(93年)、マーク・ジョンソン、ポール・モチアンと「Miles Mode/PMP」(93年)、日野皓正、富樫雅彦と「TRIPLE HELIX」(93年)、峰厚介と「DUO」 (94年、日本ジャズ・ディスク大賞)、ゲイリー・ピーコック、富樫雅彦と「BEGIN THE BIGUINE」(94年)、「TENNESSEE WALTZ」(95年)など、活発にレコーディング。また、AAOBBのニューヨークのクラブTHE COOLERでのライブ(94年)をはじめ、日本国内でもライブ活動を精力的に行う。また94年には南里文男賞を受賞している。
1996〜NOW spacer 96年、ノイズシーンで人気のドラマー吉田達也、注目の若手ベーシスト菊地雅晃と「SLASH TRIO」を結成。アバンギャルド・ロックをベースに独自の音楽を展開する。同年、このトリオにグレッグ・オズビーを加え全国ツアー。また、同じ96年には、日本のクラブDJたちとのコラボレーション・アルバム「RAW MATERIAL #1」をレコーディング。その中からカッティングされたアナログ12インチ盤シングルがニューヨークのクラブシーンでスマッシュヒットとなったのをはじめ、国内のクラブ系雑誌でもチャートイン。さらにアメリカ、イギリスのダンス系レーベルからシングル・リリースのオファが続く。このように従来の壁を打ち壊して新しい音楽を開拓する一方、 96年には、へレン・メリルの「あなたと夜と音楽と」のレコーディングにチャーリー・ヘイデン、ポール・モチアンらと参加。97年にはソロ「POSSESSED」と「M」を立て続けに発表し、東京カザルスホールをはじめとする「M」発表の全国ツアーでは、いよいよ深化したその精神性、その美しさに聴衆は魅了された。ポール・モチアンもまた、菊地のソロに魅了された一人で、自己のエレクトリック・ビバップバンドの97年の作品「TRIO2000」への参加を菊地に要請し、バンドプレイはもちろん、ソロピアノを弾かせている。さらにTETHERED MOONでは、97年に幻のファーストと呼ばれていた「FIRST MEETING」の発売と同時に2度目の日本全国ツアー。この時の「東京サントリーホール」での、ジミ・ヘンドリックスの作品をピアノトリオで取り上げるという意欲的な内容を初のライブ盤「PLAYS JIMI HENDRIX」として発表。さらに99年にはエディット・ピアフのシャンソンを取り上げた「CHANSONS DE PIAF」を発表と、ますます好調な活動を続けている。現在リーダーアルバムは50枚を超え、ジャズ、ロック、ファンク、テクノ、ブルース、ワールドミュージック…といった既成のジャンルにまったく拘束されない自由で深い音楽性により、マイルス、ギルの継承者として菊地の名前を挙げる評論家も多い。
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