月の夜






 そろそろ寝る準備をしようかと思いながら窓辺から何気なく外を見て、ちらちらと揺れる灯火に気付いた時は本当に驚いた。
 思わず目をこすってしまった。カーテンを閉めようとしていた手を止め、闇を見通すように目を凝らしてみる。
 やっぱり見間違いじゃない。そう思った一瞬後に、窓を開けてぶんぶんと手を振って合図を送ると、そのまま上着を掴んで廊下に飛び出していた。

 すぐに思い直して急ぎ足を忍び足に切り替える。隣りや向かいの部屋の住人に気付かれないようにしなければ。
 誰かに出くわすのじゃないかとびくびくしながら何とかホールに辿り着くと、ためらうことなく扉にかかった鍵をはずして外に出る。
 こんな夜更けに外出するなんて、頭の堅い長達に知れれば罰則ものだけれど、それはひとまず考えないことにする。
 今のあたしにとって、一週間の外出禁止も山ほどの課題の追加も目じゃない程、それは何より大事なことだったから。

「メイ―。来て下さったんですか〜。」
「当たり前でしょ?何かあったの、アイシュ?」
「いいえ、別に〜。ただ…ちょっとお話ししたいことがありまして―。」
 灯かりのついたカンテラを持ってあたしの部屋の窓の下にぽつん、と立っていた彼は、いつものほんわかした笑顔を浮かべて言った。あたしはちょっぴり、いやかなり脱力する。
「あのね、アイシュ。」
「はい〜」
 またもやいつも通りの間延びしたアイシュの返事にに、あたしはわざと顔をしかめてみせた。
「そんな風に外にぼーっと立ってたってわからないでしょーが?
あたしが気付かなかったらどうすんの?話があるならちゃんと呼んでよね!」
「すみません〜。でも、もうこんな時間ですし、やっぱり迷惑かなーと思いまして…」
「迷惑よ、大迷惑!おかげでこーんな門限破りみたいなことしちゃってさ。
最近は、品行方正で通ってるメイさんなんだから!」
「うう…。すみません〜〜〜」
 アイシュはがくりと肩を落としてしまい、あたしは言い過ぎたかなと反省する。あんなことがあった後なのに。もっと優しい言い方をすればよかった。
「〜〜〜でも!一週間、全然連絡よこさなかったアイシュだって悪いんだからね。」
「…はい?」
「…で、話って、何?」
「メイ…」
 いいんですか、という風に彼はあたしをじっと見詰めた。
「規則はもう破っちゃったから、あとはいつ部屋に戻っても同じことだもん。」
 あたしがそう言うと、アイシュはほっとしたような表情になって、それからゆっくり手に持ったカンテラを上げて空を指した。
「あ、あのですね〜〜。月が、ですね…」
「つき?」
「今夜はいい月夜でしょう?綺麗な月だな、と思ったら、急にメイと一緒に見たくなったんです。」



「あたしの住んでたところではね、月にはウサギが住んでるって伝説があるんだ。」
「へえ、ウサギですか〜。面白いですね〜」
「面白いかな?月の模様がそういう風に見えるっていうだけなんだけどね。…あ、あと、月のウサギはおもちをついてるっていわれてるの。」
「オモチ?何ですか、それは〜?」
「え、あ、そっか。こっちには無いもんね。
んー、なんて説明すればいいのかなー。」



 闇夜にかかった月はアイシュの言うように真ん丸で、真珠か雲母みたいな鉱物めいた白色に輝いていた。
 あたし達は、なんとなく月の見える方向に足を向けながら、それでもこれといった当てもなく、並んでゆっくりと歩いた。
 二人きりの月夜の散歩。
 なんてことのない会話を交わしながら、あたしの頭の中には、さっきのカンテラを掲げたアイシュの姿がこびりついてしまってどうにも消せないのだった。
 ふんわりと夢見るような微笑を浮かべて灯火の元に立つ彼は、まるで今にもその場から掻き消えてしまいそうに頼りな気で。
 そんな彼がこの夜更けに、どんな話を携えてやって来たのか。
 あたしは胸の中に広がる不安を押し隠して、陽気に笑うふりをしつづけた。
 いつまでも、こうやって一緒に歩いていられたらいいのに。この夜の間だけでもいいから、ずっと――。


「こっちでは、月には踊る三人の娘がいる、とよく言うんですよ。」
「え、そうなんだ?」
「メイは聞いたことありませんか?
ほら、手をつないでぐるぐる回っている娘達がいるように…見えないですかね〜?」
「…そう言えばそんな気も…。あ、うんうん!あそこが頭で…脚で…踊ってるみたいに見えるかも!」
 こちらの世界でも、月の模様を何かに見立てることがあるなんて思わなかった。
 あたしが夢中で月の娘達の姿をたどっている間、隣りを歩くアイシュはただ黙ってにこにこしていた。そして。
「メイ…僕は、王宮の仕事をやめてしまいました〜。」
 それまでと寸分も違わない調子で、彼はそう言った。
 あたしが何も言わないでいると、アイシュはさらに先を続けた。あたしは彼の声から耳を塞いでしまいたい気持ちに必死に耐えた。
「本当はもっと早くやめていれば良かったのかもしれません。
仕事は好きですし、やって来たことに後悔は…ないです〜。
でも、毎日少しずつ少しずつ、自分が擦り切れて目減りしていくような気がして…。
気が付いたら、山ほど自分に嘘をついて、その嘘に押しつぶされかけてました。
…誰が悪いわけでもなくて、みんな僕が至らないだけだってわかってます〜。
でも…もう嘘は付きたくないんです…。それに僕は――」
「…もういい!」
 聞いていられなくなって、思わずあたしは叫んでいた。驚いたアイシュの表情。あたしだって自分の行動にかなり驚いていたんだけど。
 ぎゅっと目をつぶって、それから開けると、空に浮かんだ白い月がぼんやりと滲んで見えた。そこにはもう、楽しそうに踊っているはずの娘達の姿は見えなかった。



「みんなが、あんたのこと噂してたんだから。
突然辞表を出したって。故郷に帰って、もう王都には戻らないつもりだって…。
――それを聞いて、あたしがどんな気持ちになったかわかる?」
 アイシュが彼の敬愛する総務長の汚職に巻き込まれた一連の事件。ほんの一週間前に唐突に終わったあの事件が、彼の心にどんな傷をつけたのか。
 苦いものを潜ませた彼の言葉一つ一つにそれを伺い知ることは出来たけれど、同時に、それをどうすることも出来ない自分を思い知らされるようで。 気付くと、あたしはこの一週間の間ずっと感じていた苛立ちを彼にぶつけてしまっていた。
「メイ…」
「どうしてあたしに何も出来なかったんだろうって。
アイシュがずっと困ってたこと、あたしは知ってた。知ってたのに…。」
「そんな…メイのせいじゃないです〜。」
 アイシュの言葉に、あたしは強く首を振った。
「あたしのせいでも。あたしのせいじゃなくっても。
アイシュがいなくなっちゃうんだったら、どっちでも一緒だもん。
でも…行かないでなんて、あたしに言えない…し。あたしにそんな資格…ない…っ」
 喉が詰まって最後まで続けることが出来なくなって、あたしは自分の腕に顔を埋めるしかなかった。それまで押さえていた熱いものが後から後から溢れて、止めることが出来ない…。
「あああ、メイ。そんなに泣かないで下さい〜」
 心底おろおろとしたアイシュの声。ごめんね、アイシュ。あたしって、あんたを困らせる才能があるのかも。
「僕こそ、長いことこう思ってましたよ。
メイ、あなたが自分の世界に帰ろうとする、その気持ちを思いとどまらせるなんて出来ない。僕にはそんな資格はないって。」
「アイシュ…」
「僕らは同じ言葉の周りを堂々巡りしていたみたいですね〜。
お月様の中でぐるぐる回る娘達みたいに。
――もしももっと早く、勇気を出して言っていたら、あなたをこんなに泣かせずに済んだんでしょうか?」

 急にふっと肩が暖かくなった。毛布に包まれたような暖かさ。
「メイ、震えてるんですか?…寒いですか…?」
 至近距離から聞こえてくるアイシュの声に、あたしはただ鳴咽を押さえようと、その暖かいものにしがみついた。
 優しい腕がなだめるように、あたしの背中を何度もさすってくれた。
「もうこれが最後の機会だと思ったら、どうしてもあなたに言わなくちゃと思って。
それで、ここまで来たんです〜。
こんな僕ですけど、あなたのことを想ってます〜。これからもずっと一緒にいて欲しいんです〜。
――駄目ですか…?ねえ、メイ…?」

 アイシュに抱きしめられたまま、あたしは願っていた。
 もしも夢を見ているのならこのままずっと覚めないで。
 これがお月様の見せてくれる魔法なら、ずっと魔法にかけたままにしておいて。
 この夜の間だけでもいいから、月の光があたし達を照らしている間だけでいいから――。



 月の娘達はいつもと変わらずただ踊ることだけに夢中だったから、 その夜、あたし達が何を話し、何を約束したかは、今もあたし達だけの秘密だ。



おわり





HOME●    

★Presented by HENNA★2000.7.23★