■ ■ Raindrops are fallin' ...


ぴちゃり、と音を立てて冷たいものが頭のてっぺんに、続けて頬にと降りかかってきた。手でぬぐうと、なまあたたかい水の感触が指を伝ってすべり落ちた。
一面が鈍色の雲で覆われた空からこぼれ落ちてくる無数の銀の粒が、僕の足元の丸石に次々と黒い染みを作っていく。木々の葉や枝もそれらを受けて、炎が爆ぜるような乾いた音を立て始める。

それでも、僕はその場から動く気になれなかった。僕はそこで何かを待っていて、それを待つということは僕にとってとても重要なことだったからだ。
水滴が今度は額に当たり、つっと流れてまつげに引っかかたので、僕は慌てて目をこすった。

「降って来ちゃったね」
突然、背後で聞き覚えのある声がした。とたんに僕の心臓はそれまでの倍のスピードで打ち始める。驚きが半分、嬉しさが半分。忘れるはずもないその声こそ、僕がずっと待ち続けていたもの。
顔を上げると、もうそこには灰色の空はない。目の前に広がるのは、痛いほど鮮やかな赤――。

「ぼーっと濡れてたら、風邪ひくよ? 雨がそんなに珍しいかな」
苦笑混じりの質問に、僕は一生懸命言葉を探す。
――アメ……オソト、だめ。……オウチ……。
「はあ。じいやさん、結構甘やかしてんのね、あんたのこと」
彼女は、ハンカチを出して僕の顔を丁寧に拭きながら言った。
「雨の日だって、こうやって傘をさせば外ににても大丈夫。お散歩だってちゃーんと出来るんだから、ね?」
まるでその言葉に同意するように、水滴が傘に張られた赤い布地に弾かれて、ぱらんと陽気な音を立てる。
――カサ……?
「そうよ。二人で入ると少し狭いけど――もうちょっと、こっちに寄ってみて? そうそう」
彼女は、傘を持っていない方の腕でしっかりと僕の肩を抱いて、自分の側に引き寄せた。
そして身を屈めるようにして僕の顔を覗き込むと、にこっと笑った。やわらかな吐息が僕の耳朶をくすぐる。

「こうやっていれば、二人とも濡れないね?」



□ ■ □



「メイ、それ僕が持つから」
返事を待たずに、僕はメイが広げた傘の柄を取り上げた。
突然降り始めた雨に、夕飯用の買い物に行く途中の僕とメイはかち合ってしまい、メイが用心のために持ってきていた傘が大いに役立つことになった――というのが、とりあえずの今の状況だ。
「……」
メイは何か言おうとしてすぐにやめた。その瞬間の、何ともいえない妙な表情を僕はもちろん見逃したりしなかった。
「何?」
「ううん、何でも」
わざとらしく僕から目をそらす。僕は少し考えるふりをしてから、ほんのちょっと傘の位置を下げた。
「メイが持つとこうでしょ。これだと僕は傘で頭がつかえちゃうから」
しばらく実演してみせて、それから傘の位置を元に戻す。
「だから、僕が持った方がいい」
「……リュクセル、あんたって最近なんか、感じ悪い」
メイがムッとしたように僕を睨んだ。
「……そう?」
「そうよ! ちょっと背が伸びたからって。まだあたしとそんなに変わらないくせに!」
「……」
僕は黙っていたけれど、思わず知らず口元がゆるんでしまうのをどうにかメイの目から隠そうと必死だった。
「だいたい、育ち盛りの男の子なら伸びるのが普通なの。別に偉くもなんともないんだからねっ」
「偉いなんて思ってないよ」
「ほら、偉そうな口のきき方!」
「……それって言いがかりじゃ……」
「しかも口ごたえするしー」
「……」
僕は今度は少し困って、やはり黙っているにこしたことはないと判断した。
だてに長い付き合いではないのだ、彼女とは。
案の定、メイはしばらく一人でブツブツ怒っていたけど、やがて気が済んだのか、
「ま、仕方ないか。遅かれ早かれあんたに抜かされるとは思ってたのよね」
そう言って、僕の方を見てにやっと笑った。
「初めて会った頃は――これ位の背丈だったのにね?」
「……思い出さなくていいよ」
今度は僕がムッとする番だった。
彼女の手の位置が指し示す高さは、10歳の子供のそれだ。
ちょうど僕らが出会ったあの頃の記憶を彼女の頭から追い出せるなら、僕は何だってするのに――。
この傘からしてそうだ。手の中の柄を回すと、真っ赤な(その赤は記憶にあるよりも色褪せた気はするけれど)傘もくるり、と回って雨のしずくを四方に飛び散らせた。

思えば、あの頃の僕にとってメイは神秘的な存在だった。
――いや、こう言うと笑えるのはわかってる。でも本当のことだ。
メイはごくたまに森の向こうからやって来る特別な人で、僕は彼女の来訪を待ちきれず、いつも森の入り口まで行って遊んでいた。我が事ながら、涙もののけなげさだったと思う。
ある時、外でメイを待っていて雨に降られてしまった。そうしたらまるで計ったようなタイミングで彼女が僕の前に現れて……その時、彼女がさしていた傘がこれだった。今でもはっきりと覚えている。彼女の笑顔と、背中に回される腕の暖かな重み。そして、さし掛けられた傘の赤い色を。
僕は黙ってとなりを歩くメイを見詰めた。
あの時と同じ傘の下に同じメイがいる。記憶にあるのと寸分違わない、その笑顔。
胸が痛かった。
メイはどう思っているんだろう。メイの中の僕も同じだろうか。彼女にとっての僕は、いつまでたっても変わらない――「小さな弟のリュクセル」のままなんだろうか。

「こうやって傘を持ってあげるのは、前からやりたかったことのひとつなんだ」
「?」
僕の台詞にメイは首を傾げた。
「『メイより背が高くなったらやるコト・リスト』に載せてあった」
「なにそれ」
メイが吹き出した。
「本当だよ」
「全く……他には何が載ってるの、そのリスト」
「まだ、秘密。知ったらきっと、驚くと思う」
そう言いながらも、僕はそっとメイの背中に空いている腕を回した。これもまた、そのひとつ――。
メイが不安そうに呟くのが聞こえた。
「……リュー?」
「もっとこっちに寄らないと、濡れるから」
緊張のあまりか随分とぶっきらぼうな言い方になった気がする。メイは何も答えず、黙って体を少しだけ、僕の方に預けてきた。
僕らは、しばらくどちらも無言のままで――二人の頭上で雨音だけがにぎやかなおしゃべりを続けていた。






いつか、話せる日が来るだろうか。
今まで一度だって「姉」だなんて思ったことはなかったって。









+ by Henna@StrangeFruits + 2001/10/24




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