ささやかな幸福



壁の時計が正午を告げる音に黙想を破られたキールは、ため息をついてぐっと一つ伸びをした。
最近ずっと手がけている魔法理論の論文について、朝起きた時にふっと頭に浮かんだ思い付きをあれこれ頭の中で捏ねくり回している内に、何時の間にか昼になってしまっていた。
――もうこんな時間か。
書斎の椅子に腰掛けてずっと同じ格好をしていたためか、伸びの動作で背中がみしみしと音を立てる。
――そういえば腹減ったな。
起きてからお茶一杯飲んでいないことを思い出して立ち上がり、机の上の本を何冊かかかえてキッチンに向かう。

『研究に一生懸命なのはいいけど、ご飯を抜くのは駄目だからね!』
――わかってる。
『キールは放っとくと、ずーっと本にかじりついてるんだもん。心配だよ。』
――お前に心配されるほど落ちぶれちゃいない。
空耳とわかっている声に一々心の中で相づちを打ちながら、キッチンに入ったキールは水を入れたケトルを火にかけた。
食料庫を探してクラッカーとチーズの固まりを見つけだす。
『あっ!ダメだよ、そんなもの。ちゃんと食事して。』
――煩い。

彼女はこの家のどこにも……いや、今はこの世界のどこにもいない。
そのはずなのに。
朗らかな声の断片が、部屋の隅々にまで残っていて彼に話しかけ、笑いかける。
青白いランプの光と薄く埃を被った本棚、静寂……そんなものに支配されていたはずの彼の世界。
気づかない内に、それがこんなにも変わってしまっていたなんて、と今更のように実感する。
元の生活に戻してみようにも、彼女と出会う前のことは霧の向こう側の風景のようにぼんやりとして、実のところよく思い出せないのだ。全く閉口させられる。

コーヒーを入れて自分用のカップに注ぐ。砂糖はなし。ミルクもなし。
『胃に悪いよ、それ。ミルク入れちゃっていい?』
――俺が嫌いなの知ってるだろ?…こら、勝手に入れるな。
ため息を一つついてカップにミルクをほんの少し足す。これも彼について変わった点の一つ。
もちろん好きになったわけではないが、コーヒーの量が多ければ飲めないこともない。

『ひとつ、食卓で本を読まないこと。
ふたつ、廊下で本を読まないこと。
みっつ、居間に本を置きっぱなしにしないこと。
よっつ…』
――お前な…
『いい?我が家のルールだからね。破ったら家出しちゃうんだから。』
――ここにいないくせにそこまで要求するな。
わざとらしく、堂々とテーブルに本を広げ、文字を目で追いながらコーヒーをすすってみる。
が、なんだか子供っぽい仕返しをしているような気がして苦笑しながら本を閉じた。
『あれ、何がおかしいの?』
「別に、なにも。」
楽しそうにくすくす笑う声に少々うんざりしながら答えて、自分がそれを声に出して言ったことに気づいた。はっとして、思わず額に手を当てる。
「……最悪だ。」
――お前がここにいないというだけで、俺は調子が狂いっぱなしだ。
なんとかしてくれよ、メイ――。


簡素な食事を取った後、皿をざっと洗い、拭いてから食器棚にしまう。
自分の領分では、書物や研究材料をその辺に出しっぱなしにしておくことにいささかの痛痒も感じない彼だったが、他人のテリトリーを汚すことは性に合わないのだ。
そういえば、カーテンを開けてもいなかった。
そう思い付き、居間の窓辺に行って明るいピンクのギンガムチェックのカーテンを勢い良く引いた。
冬の柔らかな陽射しが窓からさっと入り込んできて、何時の間にかうす暗がりに慣れていた彼は目をしばたかせた。
いい天気だ。こんな日は外に出るのもいいかもしれない。
そんなのは自分らしくないと知りつつも、彼は無理にそう考えた。ここにいて妙に能天気なことしか言わない幻聴にずっとつきあうよりは、まだ気晴らしになるだろう。
冷たい空気を警戒して少し厚着に着替える。その上にコートを羽織り、長いマフラーを首の回りにぐるぐると巻いた。
これでよし、と。
玄関を出ようとすると、例によって例の声が彼を送り出した。
『いってらっしゃーい!夕ご飯までに帰って来てね!』
「いつもメシのことばっかり気にしてるよな、お前は。」
一人言めかして突っ込みを入れてみたが、それに対する返答は戻って来なかった。


外に出るはいいが、特に行くあてもない。
王宮にいる兄を訪ねてみようか。いや、兄貴は今晩にでもこちらに顔を出すだろう。その時ゆっくり会える。気の良いアイシュは、彼が一人で大変だろうと言って一日おきにやって来てはなんだかんだと世話を焼いて行くのだ。
久しぶりに森の方へ行ってみるか。まだ魔法研究院に間借りしていた頃、周囲の喧燥に嫌気がさした時、近くにある森に逃げ込んでいた。一人きりになるために。
あの頃は、丸一日人と話などしなくても一向に気にならなかった。それが今はどうだ。同じ逃げ出すにしても、静かさに耐え切れなくなったから、だなんて。
それでも行けば少しは気が紛れるだろう。歩きながら論文についての構想を練ってみてもいいかもしれない。そう気を取り直して歩き出そうとした、その時だった。
いきなり、背後で大きな地響きがした。驚いて振り向くと、家の裏手のあたりでまばゆい閃光が一瞬走ったのがわかった。同時に、ぱちぱちという何かがはぜるような音――大きな魔法が発動した時特有の音――が確かに聞こえた。
――なんだ?
思う間もなく足が勝手に走り出していた。
裏庭だって?……まさか。


そこは一見、何の変哲もない裏庭だったが、訓練された目の持ち主が見れば、この家の住人についていくつかのちょっとした手がかりを得られたかもしれない。
例えば、花壇に植えられているのがみな魔法薬の調合に使われる植物であること、とか。
そして、地面に大きくて極めて複雑な魔法陣が描かれていること、とか。
駆けつけたキールは、そこで予想もしなかったものを見つけて、呆然と立ち尽くした。
魔法陣の真ん中に、きょとんとした顔で立っているのは紛れも無い、彼がよく見知った少女の姿だった。
肩で切り揃えたさらさらした栗色の髪。くるくるよく動く茶色の瞳…。
少女は、彼が見送った日と同じ、胸のところにボンボン飾りのついた真っ赤なコートを着ていた。
「…お前…っ!」
驚きのあまり絶句しているキールを見て、少女はぱっと顔を輝かせ、まるで転がるように走って来た。
「どうしたんだ、お前…」
勢いよくぶつかって来た少女の体を抱き止めると、何とか最初の驚きから立ち直ったキールは、そろそろと腰をかがめた。自分の目の位置を少女のそれと合わせる。
少女はキールに向かってにこっと笑うと、大きな声で言った。
「とーたん♪」
「一人で戻って来ちまったのか?…メイは、母さんはどうした?」
「かーたん、ないのー」
少女は歌うようにそう言うと、くしゅん、と一つくしゃみをした。
「ないのって…お前。…しょうがないな…」
途方にくれたように呟いて、キールはポケットから丸めたハンカチを取り出し、ぐりぐりと少女の顔を拭いた。
「やっ」
「こら、動くな…。」
嫌がって暴れる少女を押さえつけ、容赦なく顔を拭う。暖かく力強い生き物の感触。彼の研究のスケジュールにとって最大の敵であり、同時にこの上なく愛しい宝物…。
「寒いのか?マズいな…」
キールはいそいで自分のしていたマフラーをほどき、少女の首に巻きつけてやった。
長いマフラーはほとんど少女の体全体を二重、三重に覆ってもまだあまり、地面にだらんと垂れ下がった。
嬉しがって声を立てて笑う少女を、キールはそっとその腕に抱きしめた。
壊れ物を扱うように優しく、なおかつ、どんな脅威からも守ってやるという風にしっかりと。


キールの妻であるメイが娘を連れて実家に帰ったのは5日前のこと。
彼の研究が実り、メイは今では魔法陣を使って、自分の元いた世界とこの世界との間を自由に往き来できるようになっていた。もちろん、移動に際しては魔法陣自体の力に加えてメイ自身の魔力が不可欠な要素だったから、誰でも無条件で異世界への旅行を楽しめる、というわけではない。
ちょうどこの新年の時期、彼女の世界では親戚縁者が集まって挨拶するという習慣があるのだという。皆に会って、ついでに自分の両親に孫の顔を見せたい、と言って彼女は出かけて行き、あと3日は帰らないはずだった。
先程、裏庭の魔法陣――メイの里帰りのための特別仕様――に魔法の気配を感じたとき、てっきり予定を切り上げて帰って来たのかと思ったのだが。
まさか、今年三歳になる娘だけが一人で戻って来るとは。
「お前、ほんっとうに、メイを何処に置いてきたんだ?」
「〜〜〜△□☆○〜〜!」
彼の一人娘は上機嫌で、彼には解析不能な(彼の妻にとっては自明の理らしい)言葉で何事かを叫ぶと、すりすりと彼の腕の中で甘えた。

「い・いたあ〜〜〜〜〜〜〜っ!!!」
その時、頭上で聞き覚えのある叫び声が響いたかと思うと、魔法陣の真上の空間がぐにゃりと歪んだ。周囲に一気に満ちる魔導の気に、キールは思わず娘を庇うようにさらに引き寄せた。空気が急に乾燥し、自然に発火して爆ぜるような音を立てる。
魔法陣の上の空間が突然裂け、そこからすんなりとした脚が覗いた。やがて空間の裂け目から全身を現した彼の妻は、そこからすべり落ちるようにして魔法陣の上に降り立った。
「うわあああああん〜〜!びっくりさせないでよ、もうーーー!!」
メイは泣きながら夫と娘の元に急行すると、二人にむしゃぶりついた。
「びっくりしちゃった。どこ探してもいないんだもん。ちょっと目を離しただけだったの!
あたし、どうしたらいいかわかんなくて…」
当の少女は目を丸くして、泣きじゃくるメイをじっと見詰めていたが、やがて、
「かーたん。よしよし、ね?」
そう言ってメイの頭に手を当て、撫でるような仕草をした。びっくりして泣き止んだメイをなおも少女は一生懸命撫でようとする。
「よしよし。ないちゃ、めーよ?」
「あううう。この子ったら、もう〜〜〜〜」
涙目のまま、メイは笑い転げた。そんな妻を、キールもまた笑いながらしっかりと抱きしめた。


「魔法を使った形跡があったから、その後を辿ってきたの。まさか、とは思ったんだけど…」
そう言って彼の顔を何とも言えない表情で見詰めるメイに、キールは鹿爪らしく言った。
「封印の護符を改良しなきゃな。」
少女は、母親の胸に抱かれて眠そうにしていた。少女の首にかかったペンダントを指先で辿り、付けられていた護符を取り出す。それは持ち主の魔力を封印するかなり強力な護符だった。これを身につけているにも関わらず、この子供は時間と空間を移動する最高級難度の魔法をたった一人で発動させたのだ。
「なんだか末恐ろしいな…。」
そう言いながらも、キールは途方もなく優しい視線を少女に送った。
「むぅ…こんなに小さいくせに、目茶苦茶魔力が強いんだもん。今回は油断したよ。」
「俺もここまでとは思ってなかった。暴走するのは、やっぱりお前譲りだよな。」
「失礼な。あたしここまでひどくなかったもん。
…あ、向こうの母さんたちに知らせなきゃ。きっと心配してるよね。」
娘の失踪に気が動転して、実家には簡単な伝言を残しただけでこちらに戻って来てしまったのだという。キールは眉をひそめ、短く言った。
「…短時間に往復するのは危険だ。魔力が回復するまで待った方がいい。」
「でも。」
「伝言くらいなら、俺が後で運んでやるから。
…そろそろ部屋に戻ろう。皆で風邪引いちまう。」
「うん、ありがとね…。あ、ねえキール」
「なんだ?」
「『ただいま』言うの忘れてた。」
「ああ。」
キールはぶっきらぼうに言うと立ち上がり、メイから娘を受け取って抱き上げた。
「ん……とーたん?」
眠そうにうつらうつらしていた少女が寝ぼけてキールの首にぎゅっとしがみついた。
「やっぱり、あんたに会いたくなって戻って来ちゃったのかな?
この子、ほんとーにキールのことが好きだよね。」
「それもお前に似たんだろ」
そう言ってキールはさっさと玄関に向かって歩き出した。
「…ばっか」
メイは嬉しそうに言うと、キールの後を追った。


「ねえ、しばらく一人で寂しくなった?」
「まさか。」
「あ、怒った?あはは、冗談よ。
ごめんね、せっかく一人で羽根伸ばせるはずだったのにすぐ帰ってきちゃって。」
「…別に、寂しくなんてなかったさ。」


結局、娘の魔力を完全に封印する術を見つけるまで、遠出はやめておこうということで夫婦の意見は一致した。メイは中断された里帰りを続行することを諦め、両親に謝りの長い手紙を書いて送った。
そのため、翌日には彼の周囲の環境はすっかり元に戻っていた。
本人のパワーの前に、部屋に住む木霊達も遠慮してすっかりなりを潜めてしまい、キール自身はあの空耳をもう聞くことはなかった。
そして、今。
書斎の厚い壁を通してさえ響く、騒々しい妻と娘の笑い声にため息をつきながら、キール=セリアンはこっそりと呟く。


そう。本当に、ちっとも、全然、寂しくなんてなかった。



     = END =





★Presented by HENNA★1999/01/22★
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