黄昏時の旅行者たち (1)



「―――!」
あたしの名前を呼ぶ声が聞こえたような気がしたけど、足が前へ前へと動いて止まろうとしなかった。
目の前の風景がじわじわと滲むのに構わず、やみくもに駆けた。背後の声がだんだん遠ざかる。
――馬鹿みたい、あたし、馬鹿みたい!


 事の起こりは昨日の朝。
あたしはいつものようにラボに顔を出してコーヒーを入れ、卵とパンの簡単な朝食を用意していた。
別にあたしの仕事は家政婦じゃない。ラボのお手伝いプラス見習いということになっている。
でも、この時間にはお客はほとんど来ないし、こうでもしないとキールはすぐに食事を抜くから。
キールはこれまたいつものように、朝食のテーブルにまで本を持ち込んで鼻先をうずめるようにして没頭していたけど、不意に顔をあげて何かのついでのようにこう言った。
「お前、明日は来なくていいからな」
「ん?どうして?」
「一日留守にする。だから手伝いも不要だ」
「留守って?どこか行くの、キール?」
あたしの雇い主は言葉を端折るくせがあるので、まともな会話をするのはかなり困難だ。まぁ、あたしは慣れているけど。
「……用事がある」
「用事って?」
――しばしの沈黙。不機嫌そうな緑の瞳に睨まれても気にしたりしない。あたしはにっこり微笑んで(これも結構重要なポイント)、さらに尋ねた。
「ねぇ、なによ用事って」
 伊達に一年半付き合っているわけじゃない。彼のつっけんどんな態度と言葉の少なさに対抗するには倦まず弛まずとにかく質問すること。キールは自分から進んで説明することは絶対しないけど、質問されて答える、というスタイルには割と弱い。もちろん、答えと一緒に皮肉、小言の類が山のように返って来ることは覚悟しなくてはならないけど。

「……魔導書」
「ふぇ?」
コーヒーを一口啜ってから、ぼそりと呟いたキールの言葉が飲み込めなくてあたしは間の抜けた声を出してしまった。
キールはそんなあたしを見て、仕方ない、という風にため息をつくと(このため息も既にあたしのお馴染み、よって全然気にならない)説明してくれた。
「魔導書、だ。ずっと探してたのが見つかったと、さっき知らせが届いた」
「ふーん?」
まだよく理解できない。
「その本屋が少し遠いところにあるんだ。行き帰りで一日かかる」
「ちょっと待った。用事ってもしかして……その本を取りに行くだけ?一日かけて?」
「そうだが?」
なぁんだ、とちょっと拍子抜けした。キールが1日ラボを休みにするなんて、どんな用事だろうと思ったけど。
キールの説明では、その本屋はここ王都から西へ馬車で四時間少々かかるタスという街にあるという。その街の名前はあたしには初耳だった。
「本をこっちへ送ってもらえば?わざわざ行くことないのに」
「……見て確かめたいんだ。本当に探してたやつかどうか」
そりゃー熱心なことで。
心で思っても、賢いあたしは口には出さない。
「……お前、今呆れただろう」
う、ばれたか。なんでばれたのかな?
「お前の顔。なんでもかんでも顔に出る奴だな、ほんとに」
あうっ読まれてるっ!
伊達に一年半付き合ってるわけじゃないのは向こうも同じか。あたしは内心苦笑しつつ、澄まして自分のコーヒーに口を付けた。


「お前を元の世界に帰せないかも知れない」
と言われた時に、
「急がないでいいよ、無理しないで。あたしも手伝うから、ゆっくりやろう」
と答えた。
彼ははっきり「帰るな」とは言わなかったし、あたしも「帰らない」とは言わなかった。
――本当は、その気持ちは十二分にあると思う、お互いに。
現在、自分のラボを開いたキールの進めている研究は「あたしを元の世界に帰すこと」だけじゃなく、「二つの世界を自由に行き来すること」なのだから。
そして、試験をパスして正式な魔導士になったあたしは、助手という名目で彼のラボに毎日手伝いに通っている。ついでに言うと、三日に一度位の割合で彼の部屋に泊まる間柄だ。
それでもあたしの「帰還」は、二人の間では一種の保留事項になっている。
何故か、と聞かれると説明は難しい。
キールのことは大好きだけど、十六年間一緒に過ごした故郷とも家族とも永久にお別れなのだ、と考えただけで胸が痛くなって死にそうな気分になる。心に思うだけで体の一部が本当に痛くなる、ということがあるというのをあたしは初めて知った。
それはきっと一種の思考放棄なのだが、そんな自分をあたしはどうすることもできないでいた。


 あたしは、少し濃く入れすぎたコーヒーにミルクを足しながら考えた。明日、ここに来なくていいとなると、ぽっかり一日暇になってしまう。
これといった予定もないし、急に丸一日の休暇をもらったようなものだ。休暇……休暇……そうだ!
「ね、キール。それ、あたしも一緒に行く」
キールの答えは予想通りの短いものだった。彼は細い形のいい眉をかすかに上げると、迷惑そうな口調で言った。
「必要ない」
「必要はそりゃないけど、あたしが行きたいの。いいでしょ?自分の旅費は自分で出すからさ〜」
「しかし」
「あたし王都以外の場所ってあまり行ったことないから興味あるの。それに一緒に行って場所を覚えたら今度はあたし一人でお使いに行けるし。ね?」
頭をフル回転させてもっともらしい理由を並べ立たが、返事はこれまたごく短い。
「駄目だ」
「本以外の買い物とかないの?だったら荷物持ちもするし〜って、…アレ?キール?」
話は終わりとばかりにキールはテーブルを立ってさっさと仕事場へ行ってしまった。
「ちょっと、いいじゃないよ〜!あ、またコーヒーしか飲んでない!
朝ご飯、せっかく作ったのに〜!」
キールはあたしの抗議にもまるで知らん振りで、自分の作業部屋に引っ込んでしまった。
――あったま来た!
キールに付いて行くのはちょっと思い付いただけのアイディアだったけど、あからさまに却下されてあたしは俄然本気になった。
――そういう態度をとって、後悔しても知らないんだからね?


 あくる日の朝、あたしはいつもの制服に少し大き目の肩掛けかばんといういでたちで自分の部屋を後にした。かばんの中にはお小遣いと水筒に食料を少々。
タスの街へ行く馬車の停留所と出発時刻は調べてある。一番馬車からずっと張っていれば、必ずキールは現れる。
――意地でも付いて行ってやるんだから。
タスというのは、歴史のある古い街で、シオンによれば「魔法度は若干低め」なのだそうだ。
「……タスは昔から質のいい鉱物が採れるので有名な場所だ。加工品を中心にした商業も盛ん。お前さんなら市場を見て回るのも面白いんじゃないか?」
 昨日、付いて行くと決心したその足で街へ出て、知り合いをつかまえてはタスという街について聞いてみた。
魔導士とはいえ、王宮で政治に近い仕事をしている(という噂。あたしは彼が仕事をしているのは見たことがないが)シオンはさすがに詳しかった。
「しかし、魔導書ねぇ?魔法文化的にはさほど開けた場所じゃないんだがな?
まあ、それだけに掘り出し物もあるのかも……」
シオンは今度キールに聞いてみにゃ、とかなんとかぶつぶつ言っていた。
さすがにこと魔法に関しては、年下とはいえ「緋色」の肩書きをもつキールに一目置いているのかもしれない。
キールと一緒の時は生真面目な性格の彼をからかってばかりで、微塵もそんな素振りは見せないけれど。


 見張りを始めてほどなく、あたしはキールが停車場に来たことに気づいた。
いつもの体をすっぽり覆う黒いローブにこげ茶の長靴(ブーツ)、手荷物はなしという身軽な格好だ。
トレードマークの赤い肩掛けを今日はしていないので気づくのに手間取った。
見れば彼のほかに数人のお客を乗せ終わった馬車は、今にも出発しそうな雰囲気だ。
「待ってーっ!その馬車、乗りまーす!」
あたしは慌てて隠れていた木立の後ろから飛び出して停車場に向かった。
「ごめんなさーい!」
声を掛けながら馬車に乗り込むと、狭い車内の一番奥の席にいたキールはがたた、と音を立てて立ち上がり、頭を派手に馬車の天井板にぶつけた。
「っ!な、なんだ、お前っ!どうしてここにいるっ!」
「あたしも行くって言ったでしょ?」
「俺は来るなと言ったはずだ」
「お客さーん、出発していいですかい?」
にらみ合うあたし達に、御者のおじさんがいとも呑気な声で前の座席から尋ねてきた。
「はーい。お願いしまーす!」
「メイッ!」
「……しかたないでしょ?あたし達のせいで馬車が遅れちゃ悪いもん」
あたしは空いていたキールの隣の座席にさっさと腰掛けて言った。
「はいよっ!では、出発ー」
御者がぴしり、とムチを鳴らす音がして馬車が動き始めた。棒立ちになっていたキールも慌てたように席につく。

――なんとか、第一段階終了。
先程の小競り合いに、乗り合わせた人達が好奇の視線を投げかけてくるのを、あたしはにっこり笑顔で応えながら内心ひやひやしていた。
が、他の乗客の手前、あたしを無理矢理引きずり降ろすような手荒なまねはしないだろうという読みは当たったようだ。
これを逃すと今日中にタスへ着く馬車はないから、キール自身も降りてしまうわけにはいかない。
 しかし、むすっとした表情のキールの機嫌は、例え一年半の付き合いのあたしでなくても誰が見たって
――サイアク
に違いなかった……。






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