黄昏時の旅行者たち (2)



「……メイ」
「……う?」
「……起きろ、着いたぞ」
体を軽く揺すられて、気が付くと馬車が止まっていた。
すぐ目の前に覗き込むようなキールの顔があった。彼ははぁっとため息をつくと、あたしの顔にかかる髪を手で撫で上げてから、ぴん、と指で額をはじいた。
あう。……いたい……。
「置いてくぞ」
「え?え……?」
体を覆っていた暖かなものがふわり、と離れた。
首筋にひやりと冷たい空気が流れ込んできて、あたしはさらに覚醒した。
いつの間にかキールにもたれて眠っていたらしかった。
さらに、体に残るほこほこした暖かみに思い当たってあたしは真っ赤になった。
キールが肩を抱きかかえるようにして、彼のローブで包んでくれていたのだ。
馬車の他の乗客たちの視線が突き刺さるような気がして顔があげられない。
「メイ!」
「あ、待って!」
降りなきゃ。あたしはかばんをしっかり抱え直すと、すでに馬車を降りようとしているキールの後を追った。


 タスという街は確かに古い街のようだった。石畳の細い道が網の目のように走っていて、急な坂道がとても多い。
家並みも古く、小さい店や住宅が犇めきあうように軒を連ねてる。ちょうど王都の下町あたりをさらに狭く汚くした感じだった。
しかし、往来を行く人通りは多く賑やかだ。風変わりな装束の旅行者らしい人も多くみかけた。聞き慣れない外国語のような言葉もあちこちで聞こえる。
 よく見ていると、通りに面した小さな店は皆同じような佇まいだった。
ウィンドーには商品のディスプレイがないので、何の店かはわからない。
ガラス越しに覗くと、どの店にもニ・三人のお客がいて、店主とおぼしき人と商談に夢中になっている。
どの店の看板にも同じ文字が並んでいるので、同じ物を売る店が連なっているらしいとわかる。
「キール、あれって……」
なんて書いてあるのと、看板の文字の意味を聞こうととしたが、キールの顔を見てあたしは途中で黙ってしまった。
「メイ、帰りの馬車まであまり時間がない。ふらふらしてる暇はないんだ」
完全な無表情のまま早口でそう言うと、キールはくるりとあたしに背中を向けて歩き出した。
「や、待ってよ」
あたしは急いで走って追いつくと、少し迷ってから空いているキールの左手に手を滑り込ませた。
キールは握り返してこなかった。


「ねぇねぇ、これから行く本屋さんてここから近い?」
「……」
返事はない。
「面白そうなとこだよねえ。市場があるんだってさ。王都より全然小さいけど、人は思ったよりたくさんいるね」
「……」
「……」
キールの端正な横顔を盗み見る。怒っているようではなかった。
額に不機嫌の青筋を立てていないキールは(これがなかなか見るのは難しい)いつもよりもほんの少し幼く見える。緑の瞳は無表情で、ただじっと前を見て動かない。
こうやって見ているといつもなら、すぐに気づいてくれて、視線を合わせて
『どうした?』
ってぶっきらぼうに聞いてくれるのに。
今の彼は、自分だけの物思いに沈み込んでしまって、あたしが側にいることさえどうでもいいみたいだった。
何を考えてるんだろう。もしかしてキール、困ってる、とっても。そんなに迷惑だったなんて。
「ねぇ、キール」
「ああ」
どこか上の空の気のない返事。
「黙ってついて来ちゃってごめんね」
「ああ」
「さっきももたれてぐうぐう寝ちゃったし。重かったでしょ」
「ああ」
そっとつないだ手を離す。
「迷惑だったよね……」
「ああ」
その場で立ち止まる。彼は気づかない。
気づかない。
そのまま黒いローブの痩せた人影はあたしを置いて雑踏にまぎれた。


「べぇぇぇ〜だ。キールの鈍感!」
 あたしは彼の行ってしまった方角に向かって舌を出した。
そのまま、キールが慌てて戻って来るのを待とうと思っていたんだけど。
「あ……あれ?」
不意に視界がぼやけるのを感じて、あたしは拳でごしごし目をこすった。
これは、ちょっと計算外だった。泣いてしまうなんて、不覚。
やっぱり本当はちょっと期待してた。キールと一緒に知らない街を歩いたり買い物したり、結構楽しいんじゃないかなーなんて。例え日帰りだって、男の子と二人で旅行なんて初めての体験だったし。
馬鹿みたい。勝手に盛り上がって、勝手にがっかりして、それで泣いてるなんて。
 その時、人込みの向こうに見覚えのある亜麻色の頭がちらりと見えた。
キール、だ。きょろきょろと何かを探すような彼の姿を認めたとき、あたしは思わず、踵を返して反対方向に駆け出していた。
「―――!」
あたしの名前を呼ぶ声が聞こえたような気がしたけど、足が前へ前へと動いて止まろうとしなかった。
目の前の風景がじわじわと滲むのに構わず、やみくもに駆けた。背後の声がだんだん遠ざかる。
――馬鹿みたい、あたし、馬鹿みたい!
こんな泣き顔を彼に見られるのだけは嫌だった。
とにかく追いつかれたくない一心で、あたしはよく考えもせず、分かれ道を右に選び左に選び、めちゃくちゃに走った。
そんなわけで、しばらく走って、さすがに息が切れたので立ち止まったときには、一体自分がどこにいるのかさっぱりわからなくなっていた。

 乱れた呼吸を整えてから落ち着いて周囲を見渡すと、あたしが来た道はちょうど目の前で終わっていて、そこから急勾配な長い石段が下へ下へと降りていた。
降りた先は小さな広場になっているようで、そこからさっきの下町に戻れそうだった。
どうやらあたしは知らないうちに坂道を上って、街の一番高い所にやって来たらしい。
一番上の石段に腰掛けて一休みして、水筒から水を一口飲んだ。高みからの景色が自然に目を引く。
「うわー、遠くまで見えるなー!あ、あれって……?」
街を見はるかし、さらにその向こう。濃い緑に見えるなだらかな平原や林を超えて、さらに先。
地平線にあたる辺りに水色の細い線を見つけてあたしは絶句した。
――海!?
王都の西にずっと行けば海に出ると聞いたことはあった。もちろん王都からは見えはしないので、そうなのか、と思っただけだった。ここから見ても、水の色は遥かに遠く、そばに行くには、たぶん今日来た道のりの倍は行かなくてはならないだろう。
でも、確かに海はあった。
王国の要である王都の周辺には地方都市。北には大国ダリス。海を渡ればそこにも別の国があって……
それら全てに見も知らない人達が住んでいる。
水平線が丸いところを見ると、この世界も丸い球形をしているのかもしれない。
広い広い、世界。
あたしは強い眩暈を感じて、階段の手すりを握る力を強めた。



 どの位の間そうしていただろう。ふと、背後に人の気配を感じてあたしは振り向いた。
「キール……」
走って来たのだろう、髪を乱して呼吸を荒げたキールが立っていた。いつもの眼鏡をはずしてしまっている。
「探した」
はあはあと息を切らせながら彼は一言それだけ言った。
あたしは立ち上がる間ももどかしく、転がるように彼の胸元に飛び込んだ。
「ごめん、キール」
キールは一瞬固まったが、すぐに腕を回してあたしを抱きしめてくれた。
「ごめんねっ」
「しょうがない奴」
顔を上げると、緑の瞳が不機嫌そうに睨んでいる。でも、ね。こっちのキールならわかる。いつものキールだ。
「あのねあのね、あたし……」
話したいことがありすぎて思わず口篭もったあたしは、最後まで言うことが出来なかった。
さっとキールの頬に赤みが走ったと思った瞬間、
「ん……っ」
あたしは強く口付けされていた。少し堅くてでもしっとりとした唇の感触に、頭の芯が甘く痺れる。
顔の向きを変えながら何度も口付けられる。やがて唇を割って侵入して来た舌をあたしは夢中で迎え入れた。
「はぁ…っ」
やっと解放されたあたしは、ぐったりと力の入らない体をキールに預けた。
キールは俯いたあたしの髪にも口付けを落としながら低い声で言った。
「もう黙ってどこかに行ったりしないでくれよ。頼む」
「う…うん」
キールの胸に顔をうずめたまま、やっと肯く。
それにしても、人通りは少ないけど一応ここは往来なわけで。こんなとこで……
やっぱり今日のキールはどこかヘンだ。
あたしは、顔の火照りがしばらく直らなくて、顔が上げられず困った。